messenger
カガリは軽々と抱き上げられた。
そうなる事が当然の事のように体はあまりにも自然にアスランの腕の中に収まって、
共にいた時間の長さを今この瞬間にも思い知る。ソファに下ろされたカガリは直も床に散らばった資料を整える手伝いをしたかったが
先程の失態があるため大人しく座らざるを得ない。
小さく唇を突き出していると、離れていくアスランの指先に目が止まった。「あ、血が・・・。」
“血”というフレーズと共に脳裏によみがえるのは
つい今しがたのやり取り。
アスランが引き取った紙束を無理矢理取り返して
『いいから手伝わせろよっ。』と、引っ張って…――あの時っ
思い切り引っ張った勢いでアスランは紙の端で切ってしまったのではないか。
アスランの白い手に赤いリボンが這うように血が落ちて行く。
縫合が必要な程では無いだろうが、パックリと傷口が見えるだけの深さはあるのだろう。
息を詰めて青ざめるカガリを置いて、
アスランは淡々と指を見詰めていたかと思うと突然焦りを滲ませて身をかがめた。「代表のお召し物を汚してしまったのでは・・・。」
見当違いなアスランの言葉を打ち切るようにカガリが返す。
「そんな事はどうだっていいっ。とにかく手当だっ。」
――相変わらず自分の事になると無頓着になる。
だから、放っておけないんだ。しかし、カガリの言葉のとおり自身について無頓着なアスランは
「この程度でしたら手当ての必要は無いでしょう。」
そう言って止血に使えそうな物でも探すように視線を滑らせる、
が、その視線は強制的にカガリの方へと戻される。
カガリがアスランの手を掴みハンカチで傷口を押さえたからだ。「ダメだ。雑菌が入って化膿したらどうする。」
繊細なレースが施された白いハンカチに鮮やかな赤が浮かび上がる。
「ハンカチが。」
ハンカチを汚すことを気遣うアスランに
「新しいから雑菌は繁殖してないぞ。」
雑菌の事を指摘されたと勘違いしたカガリ。
的外れな事を口走ってしまうのは、
触れ合った手と手に灯った熱のせい。
指先から伝わる熱が胸に仕舞った想いを包む全てを焼き尽くし
想いだけが曝け出されてしまいそうで、
カガリはアスランの空いた手を掴むと力づくでハンカチを押さえさせた。「救急箱は何処だ。」
「ここには無いので医務室に・・・、
いや、代表のご用件をお伺いした後に自分で行きますので。」「医務室だな。」
アスランの言葉を無視してカガリは勢い良く立ちあがり、
追うようにアスランも続く。「代表っ。
この程度の怪我なら自分で何とかしますから。」「いいから、大人しくしてろよっ。」
カガリは有無を言わさぬ物言いで告げると強引にアスランをソファへ押し戻し
制止される前にと部屋を飛び出した。――全く私は何をしにここまで来たんだっ。
こんな筈では無かったのにと、カガリはぐっと拳を握りしめ
靴音を響かせながら廊下を疾走した。
救急箱を抱えながら来た道を戻る。
夜の闇が窓を鏡に変えカガリの横顔を映し出す。――すっかり遅くなってしまったな。
窓の影の先に煌めく星空を見て、カガリは救急箱を抱える手に力を込める。
今日、この日に、アスランを引き留めてしまったのは私のせいだ。
今夜は一人で静かな時間を過ごしたかった筈なのに。
2月14日――
オーブでは恋心を抱く者たちが胸躍らせるバレンタインデーであっても
アスランにとっては大切なお母様の命日なのだから。
アスランと恋人の関係にあった頃、
2月14日は2人で手をつないで宇宙を見上げた。
プラントにある両親の墓石の前で手を合わせる事は叶わない、
だからせめてもと、魂が消えた宇宙へと想いを馳せた。何も語らないアスランの沈黙はあまりに饒舌で、
馳せられた想いがカガリの胸に響いた。いつも決まって涙を流すのはカガリの方で、
その涙を拭うのはアスランだった。繋いだ手、
困ったような微笑み、
頬をなぞる優しい指先の軌跡、
包み込むような声。『ありがとう、カガリ。』
今はもう返らない時を大切に仕舞うように瞼を伏せて、
カガリは再び前を向く。――さっさと用件を済ませて、早く帰してやらなきゃな。
全力疾走の勢いのままカガリは扉を開け放つと、
トントントンと小気味よいリズムが聴こえ、
紙束を整えながらアスランが振り返った。「お手数をおかけし、申し訳ございません。」
眉尻を下げるアスランの手元には、先程まで床に散らばっていた資料が整然と並んでいる。
「お前、その手で片付けたのかよ。」
「手先は器用な方なので。」
彼がどれ程器用で、どれ程不器用なのか、
あまりに知りすぎているカガリはふっと表情を緩めた。
カガリが“そのままにしておいてくれたら私がやったのに”と口をとがらせれば、
アスランは“そういう訳には参りません”と言ってカガリの手から救急箱を取り上げた。
あまりに自然な動作にワンテンポ遅れたカガリは、慌てて救急箱に手を伸ばす。「手当は私がやってやるっ。」
「ですから、そういう訳には参りません。」
救急箱を掴んだカガリは直も詰め寄り
「何のために救急箱を取ってきたと思うんだ。」
しかし救急箱の取っ手を掴んだアスランはその手を離さない。
「手当は後で自分でやりますから、先に代表の用件をお伺いします。」
それで引き下がるカガリでは無く
「手当が先だっ。」
ここでアスランが引く筈も無く
「これ以上代表の手を煩わせる訳にはっ。」
カガリはアスランの瞳を真直ぐに見詰めて
「これじゃぁ借りの作りっぱなしじゃないかっ。
少しは・・・。」放たれた言葉が止まる。
カガリはアスランの瞳の中に映る自分に過去を見た。
16歳の、何も知らない少女だったあの頃。初めてアスランと出会ったあの島、
穏やかな波の音、
揺らめく焚き木の光、
涼やかな色彩の瞳に宿る炎のような意思――一瞬にしてフラッシュバックしたそれらがカガリの動きを止める。
目の前のアスランも同じ事を思っているような気がするのは
何故だろう。
同じ事を同じ時に心に描く
そんな奇跡が私にも起きるのだろうか。
大切な人も想いも傷つけた私に――――そんな筈、無いだろう。
止まらない想いに蓋をするように、カガリは瞼を伏せた。
このままではアスランに悟られてしまう気がした。
初めて出会ったあの頃のように
ただのカガリとして
ただのアスランとして
語り会う事が出来たらと――
「“少しは返させろ”。」
降り注いだ言葉に驚いてカガリは顔を上げる。
すると何処までも優しい微笑みを浮かべたアスランがいて胸が詰まった。――夢・・・?
同じ事を同じ時に心に描く
そんな奇跡が
私達に起きたのだろうか。奇跡を信じる戸惑いに言葉を失ったカガリに、
アスランは直も言葉を続ける。「初めて出会った時、」
滅多に変わらない顔色に淡い赤が差し、
少しこわばった頬と
決して外さない眼差し。「そう言って、無理矢理手当をしてくれた。」
カガリは思う、
この表情を知っていると。
アスランが緊張している時、
それでも想いを差し出してくれる時――「変わらないな、君は。」
沁み入る声が心を震わせて動けない。
胸から立ち昇る熱が瞳を潤ませて、
何か言わなくちゃと唇を動かそうにも
咽が詰まって声が出せない。
ただ嬉しかった、
初めて出会ったあの日の事を覚えていてくれた事が。
それ以上に嬉しかった、
あの日の事を思い出してくれた事が。
いつまでも言葉を発しないカガリの様子をどう思ったのか、
アスランは蝋燭の火を消すように瞳を伏せ、常と変わらぬ空気を纏った。「馴れ馴れしい真似をして、申し訳ございませんでした。」
そう言って、アスランは救急箱から手を引いた。
――え・・・?
骨ばった白い手が離れていくのがスローモーションのように見える。
同じ事を同じ時に心に描く奇蹟、
それは夢だったのか。
違う、夢にしようとしているのは私だ。
このまま立ち止っていたら、この奇跡は夢になってしまう。
何も無かった事になんか、させない。カガリは奇跡を夢から引き戻すように
離れるアスランの手を掴んだ。
驚いた瞳。
再び止まりかけた時を動かしたのは
今度はカガリの方だった。「アスランだって変わらないだろ。
少しは甘えろよ。」揺らめいた瞳はやがて微笑みに変わる。
あたたかく包み込むような
優しい微笑みに。息が止まるのではないかと思う程強くなった鼓動を胸に
カガリは到底丁寧とは言えない手つきでアスランをソファへ座らせ
“ほら、手当してやるから”と無理矢理ハンカチに包まれた手を引っ張った。
そんなカガリの仕草にアスランは肩を揺らして笑い、
カガリは“笑うなよ”と一睨みすれば、
アスランは“ごめん”と返す。
“笑いながら言っても説得力無いぞ”と口をとがらせれば、
もう一度“ごめん”と返された。――こんな風に笑い合うのは、いつ以来だろう。
澄んだ泉のような喜びが、穏やかに心を満たしていった。
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