大人の悪戯
来客を知らせるベルの音は、家主たちのように親しみに満ちた音で、なのに小さく身体が跳ねる程、鼓動が胸を打ったのは、
心のどこかで願っていたからだろうか。
会いたいと。
ムゥは無造作に髪をかきあげながら“やっと来たな”と呟いて玄関へと向かい、
マリューは嬉しそうにキッチンへと向かった。
独りリビングに残されたカガリは、所在なさげにソファーに座った。
柔らかなソファーに身体ごと委ねるように沈みこんで、
意味不明に乱れた呼吸を取り戻す。
ムゥが言っていた“待つ”対象とは、この来客者のことであろうか。
リビングへと続く廊下からムゥの声が近づいてくるのが分かって、
予感か、それとも期待だろうか・・・、
無条件に心臓が忙しなく鼓動を打ち立てた。マリューはキッチンから持ってきたシャンパンとグラスを
カガリの座るソファーの前のローテーブルに置いた。
その数は2つ。
カガリの目の前と、その隣。
マリューは洗練された手付きでシャンパンを注いだ。
心をくすぐるようなスパークリングの音を響かせて、シャンパングラスが満たされていく。
カガリはゆるゆるとマリューへ視線を向けると、
悪戯っぽい笑みを浮かべたマリューからウィンクを返された。
そしてガチャリと扉が開いた先に、
カガリは瞳を見開いた。
だって、会うことが出来ない人と思っていた人が
目の前にいるんだ。手を伸ばせば届く程
すぐ傍に。ブーケを持った、アスランが。
「アスラ・・・。」
求めていた名前は胸に支えて、うまく声にならなかった。
「カガリ・・・。」
アスランは、驚いた瞳をさらしてカガリを見詰めていた。
まるで時が止まったように動けずにいる2人を他所に、
ムゥはニヤリと口角を上げた。「じゃ、俺達もう休むから。
戸締りだけ、よろしくな。」そう言って、アスランのジャケットの胸ポケットに家のカギを落とした。
アスランは感情をすっ飛ばすような状況に、切羽詰った視線をムゥに当てた。「どういうことですかっ。」
「え、見たまんまだけど。」
しかし、飄々と言ってのけるムゥに敵う筈はなく、
アスランは深い溜息をついた。
ムゥはそんなアスランの肩を乱暴に引き寄せ、何かを耳打ちする。「なっ!」
アスランが頬を染めて息を呑み、
ムゥはニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべていて、
そんなアスランとムゥのやり取りに、カガリはきょとんと瞳を丸くしたまま首をかしげた。「なぁ、何だぁ?」
そんなカガリの無垢な問いに、ムゥは爆弾を落とした。
「俺とマリューからの、
誕生日プレゼント!!」
来客して1分で、来客者を置いて寝てしまう家は
他に無いと思う。ムゥとマリューがリビングを後にしてもなお、立ち尽くしているアスランと
見詰め合ったまま瞳を剥がせないカガリの間で、
シャンパンの繊細なスパークリングの音が響く。カガリは、瞳はそのままにぎこちない手付きでソファーをぺちぺちと叩いた。
「とりあえず・・・、座れよな。
残業だった・・・んだろ?」そう言葉を紡ぐので精一杯だった。
一方のアスランはくしゃりと表情を歪め、
「こんな筈じゃなかったんだが・・・。」
そう言って、眉尻を下げて笑った。一歩一歩近づいてくるアスランに、
「え、残業じゃなかったのか?」
カガリがそう問えば、
「あぁ、残業はしていたよ。」
何処か曖昧さの残る言葉が返ってきた。
「なんだよそれ。」
それがおかしくて笑みを零せば、
アスランの穏やかな微笑みが返ってきて
止まらない喜びに満たされた。「あ・・・。」
そんな、あまりに素直すぎる自分の想いに気付かされたその時だった。
隣に立ったアスランを仰ぎ見て、息が止まる。
アスランの瞳に自分が映っていた。
白いワンピースが、翠に染まっていた。「おめでとう、カガリ。」
声が優しく降り注ぐ。
耳を澄ませていたくなる、だからアスランといると静かな気持ちになる。
ふわり、舞い上がる気持ちを今だけは胸に仕舞わずに、
言葉にしよう。「ありがとう。」
2人だけの乾杯。
口に含んだシャンパンに
まるでハチミツを溶かしたような優しい甘さを感じたのは
気のせいだろうか。
「これは、キラとラクスから。」
そう言って、アスランはカガリにブーケを渡した。
清楚な淡いピンクのバラを基調とし、端々に添えられた鈴蘭が可愛らしく揺れている。
この花はキラとラクスが愛情を込めて育てたのであろう、
クライン邸の庭で寄り添う2人が見えるようで、カガリの顔に自然と微笑みが浮かんだ。
そんな風に、花の香に想いを馳せていたからであろう。「それと、これは俺から。」
アスランの声にはっとして顔を上げれば、
「失礼。」
断りの言葉を落とされ、なんだか胸元がこそばゆくなる。
なんだろうと純白のワンピースに視線を這わせるとそこに、「コサージュ・・・。」
ブーケと同じ、淡いピンクのバラに鈴蘭が散らされたコサージュがあった。
過去を見た、そう思って視界を濯ぐように瞬きをして、
もう一度見た先にあるのは偽りの無い、今。――覚えてて、くれたんだ。
――あの頃が、今に変わっても。
――あの頃を、大切にしてくれた。
アスランがくれた、生花のコサージュがこの胸にある。
過去も今も変わらぬ想いを抱く、私の胸に。真実に触れるようにそっと、カガリは繊細なバラの花びらに指を這わせた。
愛おしさが、バラの棘のように胸を刺して、
でも痛みの分だけ優しい気持ちになる。――無限の加速度で広がっていくこの気持ちは、
アスランに届くかな。想いを伝える手段はきっと、言葉だけじゃない。
だけど今、選べるものは言葉しか無いから。
真直ぐに決まった心、伝えるための息を吸い込んだ時、
ふと薫った花の香に背中を押された気がした。「ありがとう。
嬉しい、とっても。」アスランを仰ぎ見れば、驚いた瞳を緩めて
はにかんだような微笑を浮かべていた。
5月18日、午前0時まであと少し。
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