11-9 心を浸す旋律
澄んだ水のように清らかな声が
叫びを打ち消した。火を消すように
一瞬で。
熱も、炎も、燃え盛る音も
鎮まる。自然の摂理のように
感情を変えていく。それは声の主が彼女だからだろうか。
平和を歌い続ける
彼女だから。
≪みなさん、ごきげんよう。
わたくしは、ラクスクラインです。≫清らかな微笑みを浮かべて画面に現れたラクスに、
アスランは力無く表情を歪めた。
その拍子に汗を含んだ前髪が揺れた。――君はまた、微笑みを浮かべるんだな。
この世界で。≪今日も平和の歌を、届けます。≫
透き通った旋律がアスランの胸に染み入る。
狂気にも似た清らかさが冷たく胸を締め付けるのに、
何故だろう、救いを見たような気がして
アスランの瞳から涙が散っていった。無意識だった。
だからアスランは、コックピットに浮かんだ雫に驚き目を見開いて
唇を噛んだ。
こんな時に癒されている、自分に嫌気がさした。
感情に飲まれている場合じゃない、
立ち止ってはいけない、
カガリにもう一度会うために、
夢を叶えるために。
心を浸す旋律に
救いを求めるように引き込まれていく。
きっと旋律に流される方に安楽が待っていると知っていた、
しかしそうすれば戻せなくなる、失った時間を。
そしてきっと戻れなくなる、
逃げた自分から。
君以外に、今の俺に救いなんて無いのに。
アスランは旋律から逃れるように音量を下げてヘルメットのシールドを戻し、
現実を見据え目を凝らした。
そして、初めて気がついたのだ
ラクスの背景に。――何処かで見たことがある。
1日1回の頻度ででラクスの歌は緊急国際放送を通じて放映されている。
彼女が歌う背景はバルティカを最後に白い空間に戻っていたが、
ここに来て再び背景が変わったのだ。
広がるのは蒼い海と空――――何処だ・・・?
背景に広がるのは間違いなく地球だった。
いくらプラントが英知を結集して同じ色彩を創り出したとしても
やはり地球上のそれとは全く異なる。
地球の色彩は唯一、
地球上だけで映えるものだ。
それを強く感じるのは自分がコーディネーターだからだろうか。アスランは弾かれたように記憶のページをめくり、
背景と磨り合わせ照合を繰り返していく。
その度に、空と海の蒼を映したようなラクスの瞳に意識を持って行かれそうになる。
アスランは奥歯を噛みしめ背景に意識を集中させた。確かに見たことがあった。
それも1度では無い。
メディアで・・・それとも作戦で・・・。「・・・クレタだ・・・っ。」
思考がそのまま言葉をついて、
アスランはヘルメット越しに口元を押さえた。
導きだした答えを押し戻したかったのだ、
そんなことをしても目の前の現実は変えられないと分かり切っているのに。口元の指先がこわばり、やがて静かに元の位置に戻された。
ここがクレタであることにキラが気付くまで、そう時間はかからないだろう。
いや、もしかしたら既にプラントは動き出しているかもしれない。
ここでストライクがクレタの海上に現れれば
地球の人々はこう思うことだろう、
悪夢の再来と。
先の戦争でミネルヴァのインパルスが連合率いるオーブ軍を撃破した記憶は
オーブだけではなく連合にも、そして現地の民にも生々しく刻まれているだろう。
インパルスがまるで修羅のように戦艦を鎮めていく光景が――連合を煽るにはストライクが舞い降りるだけで十分すぎる効果を発揮する。
そして、もう一つの可能性にアスランの表情が歪む。
プラントにとっても、ラクス捜索が大きな口実になるだろう、
クレタを押さえるための。
クレタはその重要性故に、アスランは何度もザフトでクレタ襲撃作戦のプロットを耳にしてきた。
今の世界情勢によりクレタの地理的な重要性はさらに増している。乱れそうになる呼吸を整えながら、アスランは冷静に思考を積み上げていく。
静かに、確かに。もし、自分がザフトにいたら、
プラントの国益だけを考えるなら、
答えは簡単だ。ストライクでクレタに向かったキラを黙認、
すると、悪夢の再来に浮足立った連合は自衛の戦線を引く、
こちらから議長の捜索協力を依頼、
当然拒否するだろう連合の返答を待つ間に
周辺基地から援軍を呼び寄せ領海線に布陣させる。――威嚇に連合が引っ掛かれば一気に畳みかけ、
そうでなくても捜索協力には応じるだろう。相手が屈するだけの圧力はかけられる、
地上からも宇宙からも。――多少の戦闘は・・・いや、万一の場合は開戦も覚悟するだろう。
それだけタイミングがいい。
むしろ、タイミングが良すぎる。
予定調和のように。――何故、今なんだっ。
傾く音が鳴り響く世界で、
宇宙も、
地球も、
平和の女神を失くした今――。そこまで思考したアスランの時がゆっくりと静止し、
やがて逆回転をはじめる。――今だから・・・なのか?
平和の象徴とも言える2人の指導者を失った世界で
再び戦火の炎が燃え上がる。
人はこれを神のさだめと言い、
あるいは時代の流れと言うかもしれない。
だが、それは本当に人の力の及ばない次元のことなのだろうか。
恣意的な予定調和なのではないだろうか。そう、例えば
この先に可視化されない軌跡が描かれているとしたら。思わずアスランは背後を振り返った。
自分の辿った道、
そこに残る足跡、
その下に描かれた軌跡が
透けて見えるような気がした。しかし、瞳を染めるのは果てなき宇宙だけだった。
アスランは静かに瞳を閉じて紅を反転させた。――今を見誤るな。
確証なんて何処にもない。
今が恣意的な予定調和の過程なのか、
これが神のさだめなのか
時代の流れなのか、
全てが偶然なのか。そのどれであろうと、確かなことはここにある。
アスランは無意識に胸元に手を充て、
開いた瞳は迷わず宇宙を捉えていた。――今すべきことは残されている。
アスランは画面上の座標を拡大させた。
これは幸運と言うべきなのだろう、キラがプラント周辺空域にいるのであれば
アスランの現在位置周辺を通過する筈だ。
そこでキラと接触できれば、流れを変えられる。
こんなタイミングで開戦してはいけない、
まだ話をする時間は残っている。
最大に拡大した座標軸。
そこに蒼い星が点滅したのは間もなくのことだった。キラが来る。
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