10-28 記憶の糸
バルティカの民にとって最も神聖で、最も安らかなこの場所に
無数の足跡が刻まれていく。
祈りではなく憎悪の言葉を唇にのせ
その手に武器を持ち。
ナチュラルとコーディネーターの身体能力の差は
ただ大地を駆けるだけでも明らかになる。キラは先に礼拝堂へ向かったバルティカの民を半ば強引に抜き去ろうとしていた。
「キラっ!
待つんだっ!!」キラの背中を追いかけながら叫んだ言葉が
聴き届けられることは無いとアスランは知っていた。
それでも叫ばずにはいられなかった。
バルティカの民にとって、この状態でキラが礼拝堂の内部へ入ることは
精神的支柱に土足で踏み込むことを意味する。
キラの気持ちも今の精神状態も分かっている。
だがこのままでは、最悪の場合礼拝堂の中でキラは――。残酷なシナリオを切り替えるようにアスランは思考を打ち切った。
バリケードの先の礼拝堂はあの日のままだった。
礼拝堂の天井はえぐられるように崩れ落ち
業火が多くの命を焼き尽くした跡が一面に広がっている。
今もなお燻ぶる炎が匂い立つように降り積もった雪の間から惨劇の片鱗が覗いていた。
そして瓦礫の中から浮かび上がる荘厳な祭壇。
ホールの最奥にある祭壇だけは奇跡的に古来の姿を保っていた。
まるでバルティカの神に護られたように。
その神秘が冷たく胸に迫る。ミリアリアは次々にシャッターを切っていった。
時代が動く瞬間なのだと分かっていたから、
それを記録におさめることは歴史的瞬間に立ち会った者の使命だと感じていた。
ファインダー越しに礼拝堂を捉えた時、妙な違和感を抱いた。
何だろう、そう思いカメラを外して目を凝らした。
久方ぶりの蒼穹に光る桜色の星――。
「何処だっ!
穢れし魔女を引きづり出せっ!」その声と共に、バルティカの民は祭壇の方へ踏み込んでいく。
深い爪痕を残す礼拝堂の長椅子をすり抜け、
床を彩るステンドグラスの色彩を踏み越えて。
祭壇へ辿りついたキラがラクスの名を呼ぼうとした時、
アスランはキラの肩を渾身の力で引いた。「キラっ。」
今この場所でラクスの名を呼ぶことはタブーだ。
バルティカの民の怒りを煽ることになるだけではない、
キラの身に危険が降りかかることも目に見えている。
しかし、そんなアスランの想いを今のキラが理解できる筈はなかった。
キラは肩を引かれた衝撃で体勢を崩しながらも、愛する人の名を呼んだ。「ラクスっ!!
君に、会いに来たんだっ!!」声はキラの想いのまま切なく響く。
しかし、キラの声に応えたのは銃を構える鈍やかな音。「まだいたのか、穢れし民よ。」
バルティカの民により無数の銃がキラに向けられた。
アスランはキラをかばうように前に立ち、
民と対峙し静かに口を開いた。「彼は、キラは愛する人を探しているだけだ。
ただそれだけで撃たれる理由があるのか。」アスランの声は祭壇の高い天井に反響し、不思議な響きを持った。
対峙する民の瞳には抱き続けた哀しみと憎しみが映っている。
それはどれほどのものだろうかとアスランは想う。
しかし、バルティカの民が耐えてきたどんな痛みと苦しみも
今キラを撃つ理由にはならない。
キラはただ、ラクスを愛しているだけなんだ。
人を愛する純粋な想いが、命を奪われる理由になってはいけない。
それはきっと、遍く人の正義なのではないか。アスランは手に持っていた白銃を投げ捨てた。
アスランとキラ、バルティカの民の間に沈黙が落ちる。
それは人種を分かつ壁のように厚く重い沈黙だった。
その時、扉を開く音が響いてアスランは音源へと視線を滑らせた。
祭壇の脇にある小さな扉の前に現れたのは一人の修道女。
水のように澄んだ青の色彩の服に身を包み、手には白いグローブをはめ、
肌の露出は極端に少ない。
顔はベールに覆われており表情を覗い知ることはできないが、
何処か少女のような可憐さや幼さを感じさせる。――あの色彩・・・どこかで見覚えが。
と、アスランは背後のキラの異変に気付いた。
蹲るように頭を抱え、米神に汗を滲ませている。「どうしたんだ、キラ。」
静かに問えば、荒い呼吸に交じった声が返された。
「頭が・・・、しびれてっ、・・・痛い・・・。」
「キラ・・・?」
修道女はアスランとキラ、バルティカの民の間へ歩みを進め、
沈黙の狭間に立った。「ここは礼拝堂です。」
修道女がそう言葉にしただけで、バルティカの民は一様に跪いた。
まるで神に祈りを捧げるように瞳を閉じ、口ぐちに“エネア様”と呟いている。「その手に武器を持つ者は、今すぐここから立ち去りなさい。」
彼らは無言で立ち上がり修道女の言葉に従った。
まるで彼女が呪術を使ったかのように
彼らは足音さえ揃え一様に礼拝堂を背にして街へと戻っていく。
ただ2言で怒りと憎しみに満ちた民の瞳の色を変え
礼拝堂に静寂を取り戻した修道女。――それだけこの地の民は信仰があついということか。
しかし、胸に支える違和感は何だろう。――あの声・・・、聴き覚えがある気がする・・・。
アスランは記憶の糸に目を凝らした。
記憶の声は最近のものではない、
そう例えばDDR遂行のためにバルティカに入る、もっと前。
戦後の2年間の間に・・・?
いや、戦前か・・・?そこまで思考した時、祭壇横の扉が再び開いた。
飛び出してきたのは修道服に身を包んだ少女。
幼稚園へ通うくらいの年齢だろうか。
ベールの裾から覗く赤い髪を揺らして修道女まで駆け出し、抱きついた。「お姉ちゃんっ!」
アスランの背後でキラの息を飲む音がした。
様子がおかしい、そう思いアスランは身をかがめてキラの肩をゆすった。「キラ、大丈夫か?」
アスランの声で少女は初めて存在に気付いたのであろう、
胸に掛けたアミュレットを両手で突き出すと、声を張り上げた。「出ていきなさい!今すぐっ!!
コーディネーターなんか大っ嫌いよっ!!」バルティカの凍てつく大地を撫でた風が何にも遮られずに礼拝堂を吹き抜けた時、
少女のベールが揺らめいて表情が露わになった。
愛らしいブルーグレーの瞳を光らせ、小さな唇をきゅっと結んでいる。
きっと勝気な性格なのであろう、他所者の大人を前にしても怖がらずに
この礼拝堂を護ろうとしている。
アスランが少女に応えようとした時、それを遮ったのは不可解なキラの言葉だった。「・・・フレイ・・・?」
キラはまるでうわごとのような声を漏らし、
花の香に誘われる蝶のようにゆらゆらと立ち上がった。
アスランは確かにその名を記憶していた。
だが。――彼女はもう、この世界にはいない。
彼女のことを教えてくれたのはカガリだった。
『フレイ?あぁ、キラの仲間だ。』
キラの仲間で、そしてキラにとって“護らなければならない人”。
しかし彼女は第一次大戦の戦火に巻き込まれ、宇宙で命を落とした。だから、今目の前にいる少女は“フレイ”ではない。
そもそも年齢が違いすぎる。
なのに何故、キラは少女のことを“フレイ”と呼んだのか。
追いつめられた精神が幻惑を見せているのだろうか。
キラはもう一度その名を呼んで
修道服に身を包んだ少女へ近づいていった。――やっと、君に会えた。
紫黒の瞳に涙を溜めて恍惚とした微笑みを浮かべ、
――君に伝えたいことが、あるんだ。
幸福に触れるように手を伸ばした。
――ずっと、言えなかった言葉。
少女は何かを感じ取ったのであろうか、
淡く頬を染めて真直ぐにキラを見詰めている。
この出会いを受け入れるように。
そして、キラは少女と目線を同じくするように肩膝をついて
そっと小さな手を取った。――ねぇ、フレイ・・・。
キラが何かを伝えようと色の無い唇を動かした瞬間、
キラの意思が断たれるように意識が途切れ、
何も言わぬまま少女の横に倒れ込んだ。
「キラっ!!」
アスランが駆け寄った時、複数の足音が折り重なるように近付いてきた。
キラの脈を確認しながら振り返れば、
足音の主がラクスの秘書官であるエレノワとニコライ等であることを確認し
カリヨンがバルティカの地へ降り立ったのだと知る。
目的は問わずとも明らかであった。「キラ様っ!!」
エレノワはキラの生存を確認すると安堵の表情を浮かべ、
それを待ってニコライは修道女へ一礼するとキラを抱えてその場を辞そうとした。
EPUのミリアリアに付き添われ、逃げるように余裕の無い彼らの足取りを見れば、
バルティカに無許可で降り立っているのだろうと予想がついた。
ならば一刻も早くキラを収容すること、それが最善である、
プラントにとっても、バルティカにとっても。
しかし、頭では冷静に判断を下せても、胸で支えて飲み下せない。
このままキラを宇宙へ返せば、同じことの繰り返しになるだけではないのか。
たった独りで、宇宙でラクスの名を呼び続けるキラの姿が目に浮かび、
アスランはニコライとエレノワを引きとめた。「どうなさるおつもりですか。」
エレノワは視線をキラへ流し、力無く首を振った。
その表情には積み重ねられた苦味が浮かんでいた。「私達には・・・キラ様をお止することはできません。」
「しかしっ。」
このままでは、キラの体と精神が磨り切れるのは時間の問題だ。
「分かっています。
魂を削るように宇宙へ飛び立つお姿を見てまいりましたから。
何度も、何度も。」近くに居ればいる程、相手の苦しみが分かってしまうのに
直接的な力になれない苦しみはアスランにだって理解できる。
だけど、相手にとって現実的な力になれないとしても
何もしないという選択をしようとは思わなかった。「ならばせめて、これからは話をさせてください。
宇宙でキラはずっと孤独だった。」ニコライの腕の中のキラは幼い子どものように全身を預けている。
その体からもキラの胸に巣食う絶望をはっきりと看取出来た。「しかし、副議長からの通達で・・・。」
良心と忠義の間で揺れるエレノワの横で、
ニコライはたおやかな笑みを浮かべて頷いた。「分かりました。配慮してみましょう。」
「ニコライさんっ!」
食い下がるエレノワに、ニコライは罪を告白するように宇宙を仰いだ。
「私達も見失っていたのかもしれない。
本当に護りたい人と、世界と、
そのための術と、行動を。」朝の目覚めのように晴れやかな表情でニコライはエレノワに向き直った。
「さぁ、宇宙へ還ろう。
私達は誰かの怒りを煽り、
誰かを哀しませたい訳じゃないだろう。」ニコライは言葉無く見詰めている修道女と少女へ視線だけで会釈をすると
バリケードの方へ歩みを進めた。
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