9-9 英雄が舞い降りて
地球上にあるプラントの駐屯地には第一から始まるナンバーが振ってある。
しかし、バルティカと国境を接するその駐屯地だけはいつまでもナンバーがつくことは無かった。
何故ならば、大量破壊兵器グレンダ被爆による環境汚染はバルティカ国内に収まることなく
この駐屯地にも及んでいたからである。
この地は地球連合から賠償として譲渡された形を取っているが
内実は連合から押し付けられたようなものだった。
この地をプラントの駐屯地として機能させるために、
プラントの高い技術を注ぎ汚濁された大地を浄化させるのには月日を要したため、
いつまでも「 th駐屯地」と表記され続けた。
そのスペース欄にナンバーが入るように。
しかしいつしかその地はスペイスと呼ばれるようになった、
Spath駐屯地と。
対峙したキラとラスランは堅く握手を交わし、
スペイス駐屯地の会議室は無数のフラッシュで包まれた。
プラントからの特使としてスペイス駐屯地及びバルティカ紛争に関する全権を任されたキラと、
オーブ軍の軍服の袖にDDR部隊を示す瑠璃色の腕章をつけたアスラン。
この地で開始されたプラント、オーブDDR部隊間の交渉、
つまりキラとアスランの間で行われる交渉は全世界からの注目を浴び、
その大きさは大会議室を埋め尽くすメディアの数からも明らかであった。
世界がバルティカ紛争の行方を憂慮していたことは確かであるが、
それ以上に世界を引き付けたのは、
2度の大戦を駆け抜けた若き英雄が肩を並べる姿だった。メディアを通して発信された2人の姿に、世界はこう思ったことであろう。
紛争下の彼の地に、必ずや平和が訪れるであろうと。
何故ならそこに、英雄が舞い降りたのだからと。それは単なるメッセージでしかなく、
平和への具体策はこれから打っていかなければならない。
しかし、このメッセージこそが平和構築の下地として働くであろう。
それがクライン派の狙いであり、キラを特使として派遣した理由でもあった。
ラクスは政務室のモニターで、キラとアスランの交渉の模様を粒さに見守っていた。
そして同じ頃、カガリもまた祈るような眼差しを送っていた。
2人の女神の願いが、憎しみと哀しみが渦巻く彼の地へ馳せられる。
バルティカから提示された和解条件の電子資料に目を通して、
キラは穏やかな微笑みのまま頷いた。
「わかりました、大方この条件を受諾する方向で進めます。」
キラの返答に、アスランは驚きを押さえ込んで問いを継いだ。
「大方、というと?」
「この条件ですが――。」キラがバルティカからの条件をのむとは、アスランは思っていなかった。
何故なら、提示された条件は莫大な金額の賠償金と、食糧・エネルギー援助、
そしてプラント側が拘束したテロリストの無条件解放、
事件当時の駐屯地の最高責任者の身柄の引渡しであった。
賠償金の金額だけでも、独立児地区ソフィアを失ったプラント財政を逼迫するものであり、
前例から考えても法外なものである。
それを即受諾するとは、それだけプラントに覚悟があるということだと読み取れる。
しかし、やはり次の条件は提示どおり受諾されず、
代わりに提示された提案は妥当なものであった。「こちらで拘束している容疑者、前総督ともにEPUへ送り、
国際裁判所で公平な裁判を行うことを提案します。」
「承知しました、その意向をバルティカ皇国へ伝えた上で再度交渉の機会を設けましょう。」
交渉を全面的にオープンにした狙いは、クライン派、アスランの双方で異なった。
クライン派は交渉過程全てをバルティカの民をふくめ全ての人々へ向けて発信することで、
プラントの意志をキラの言葉で伝え、誤解が挿まれるタイムラグを防ごうとした。
一方アスランは、キラと自分自身がコーディネーターであり、古くからの親友であり、
そして2度の戦争を駆け抜けた戦友であるという点から、
バルティカがプラント・オーブ間の癒着や密約の可能性に疑心暗鬼になることを防ごうとした。
DDRに限らず、交渉において最も重要であることは信頼であるから。
そして双方の狙いはそのまま現実の効果として現れた。
これまで強行姿勢をとっていたバルティカの対応が軟化し、
協力的とはとても言えなかったバルティカ皇国軍に規律が戻り始めた。
アスランは時の流れの変わり目を見逃さず、
テロ集団化したように見えた軍閥への交渉を一気に畳み掛け、武装解除を進めていった。そう、全てが望ましい方向へと進んでいるのだと、世界は思っていた。
しかし、この纏わり付くような不安は何だろうと、アスランは思う。
可視化されないそれを振り払うことは出来ず、
しかし不確かな不安は確かに凝固し、深く染み付いていく。
アスランは葉巻煙草を燻らせるバルティカの軍閥の長に書面を提示した。
「では、こちらに承諾の署名をお願いします。」
清潔に整えられた白髪を揺らしペンを取る手付きひとつからも洗練された空気を感じ取った。
姿だけ見れば紳士であるが、その鈍びやかな眼光に
幾多の戦場を潜り抜けてきた戦士としての誇りと、
己の信じる正義を貫き通してきた強さを感じ、肌が粟立つ程だ。広大な敷地内にゆったりと構える邸宅には積み重ねた歴史の重厚さを感じ、
それは同時にこの軍閥の強大さを示す。
旧世紀より情勢の安定をみないバルティカにおいて、確かな組織を保ってきた力を。
そして同時に思うのだ、この組織こそが
汚染された不毛の大地の上で貧困にあえぐ民衆の不満を引き受けてきたのだと。
たとえその手段が暴力と破壊を生んだとしても、
確かに民衆の行き場の無い思いを受け止めてきたのだと。「どうぞ。」
「確かに。」署名の入った承諾書を受け取りながら、アスランは静謐な眼差しを向けた。
と、軍閥の長は何処か諦めと安堵を混ぜたような溜息をもらして、
ゆったりとアスランを見据えて口を開いた。「馬鹿息子は国を出て、豊穣の土地で農業をやっていてな。」
そして、アスランの背後で銃を構えていた部下に目配せをした。
普通であれば身構えるであろう仕草にアスランは全く動じず、
軍閥の長は快活な笑みを浮かべた。「貴方は丸腰とは思え無い程、肝が据わっている。
飲むだろ?
軍閥解散の祝いだ、飲んでくれ。」そう言って、部下がサーブしたワインをアスランに差し出した。
「今は職務中ですが・・・、お言葉に甘えて。」
アスランは、毒物混入の疑いや戸惑いの一切混じらない、穏やかな微笑みを浮かべて頷いた。
乾杯に言葉は無く、
その沈黙はまるで消えた命への黙祷のようだと
アスランは思った。
傾けたワイングラスに語りかけるように、軍閥の長は続けた。「わしには跡取りも無いし、残された時間も僅かだ。
だから交渉に応じた、だが、他の奴らが何処まで応じるかは分からんぞ。」まるで息子に向けた響きの言葉に、アスランは胸が熱くなった。
何かを伝えようとする人に、耳は自ずと澄んでいく。「バルティカという国が、嘗て何をしていた国か、わしの口からは言えん。
それに、わしのような小者が知りえるものなど、芥子粒程のこと。
だが、それ程のものがこの国には根を張り、民から吸い上げ、民を潤し、
そして、」
その瞬間、彼のブルーグレーの瞳の色彩が鋭い光を宿した。
「その果実を貪っていたのは、誰かを、
いつか、世界は知るべきだ。」言葉を遮断する眼差しを、アスランは受け止めることしか出来なかった。
彼が何を伝え遺そうとしているのか、計り知ることは出来ない。
ただ出来ることは、忘れないでいることだ。
言葉を、
眼差しを、
向けられた意志を。
すっかりグラスが空になる頃、軍閥の長は深い皺を緩やかに刻んで微笑みを浮かべた。
「息子に・・・久しぶりに会いたくなった。」
「奇遇ですね。俺も、父上と話しをしいと思っていました。」アスランの声に薫る切ない懐かしさに、軍閥の長は慈愛の満ちた目を細めた。
「君のお父上は、幸せ者だと、わしは思うよ。
君のような息子を持って。」まるで肩に手を置くような言葉に、アスランは眉尻を下げて応えた。
「そうでしょうか。
“お前はまだまだだ”と、叱られそうな気がします。」
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