9-22 小さな大歓迎
アスランは割り当てられたホテルの一室のソファーに背を預け、濡れた髪をタオルダライした。
その拍子にシャンプーのフレグランスがふわりと香る。――長い、一日だった。
アスランは数時間前を思い起こすように瞳を閉じた。
画面上からラクスが消えた数分後、
今度はハルキアス大統領が全世界へ向けて緊急国際放送を行った。
その演説はテロの惨劇に傷ついたコーディネーターの精神に深く沁み入るものだった。
事実、セントラルホールに避難したコーディネーターは
預言を賜るようにカミュを仰ぎ見ていた。『私には責任がある。
ひとつは、テロを未然に防ぐことが出来なかったという責任である。
しかしそれは同時に、テロの恐怖に屈すること無く立ち向かい、
世界から撲滅する責任でもあると、私は誓う。』『故に私には重い責任がある。
このテロで奪われた命の数だけ、
そして今を生きる全ての命の数だけ、
重い責任がある。』『もしこの世界に、同じ責任を感じる人々がいるのなら、
私は心から呼びかけたい。
世界があなたに何をもたらすかを問うのではなく、
あなたが世界に何が出来るのかを問うてほしいと。』『私は今この瞬間から、その問いに応えてゆこう。
現実の力として。』若く精悍な指導者が自ら負った責任に、人々は共感を示したのであろう。
吹き抜けのセントラルホールに地鳴りのような拍手喝采が響いた。
共感によって繋がれた一種の連帯意識によって、
避難者たちは人種の境界を越えた協力の機運が高まっていった。
それはセントラルホールに限ったことでは無かったのであろう。
アスランは無造作に首にかかったタオルを取り、ミネラルウォーターのキャップを外した。
端末で各国のニュースを流し読みすれば、
セントラルホールで子どもたちを引き連れ献身的に救助活動に参加したカガリの姿が
大きく報道されている他は、
一様にカミュの演説を引き合いに出し、行動を発揚するような文面になっている。
しかし、それが可能となったのは犯行グループとテロの詳細が全て伏せられ、
犠牲者の名前だけが明らかになっているからに他ならない。――やはり、伏せられたか。
ダンスホールで爆破テロを起こし、
さらに列席者の内コーディネーターだけを射殺したことが明らかになれば、
もはや開戦は時間の問題となる。
状況証拠から判断すれば主犯はブルーコスモスのように思われるが
犯行グループが断定しないまま判明している事実だけを公表することは危険だと
ソフィア政府は判断したのだろう。
偏見に煽られて戦争へと引火することを避けようとしたのだ。
それは同時にソフィアの外交姿勢が慎重であることを示している。
もし報復するのであれば、先に行われた大統領演説時が最も適したタイミングであったからだ。しかしいくらソフィア外交が穏健であっても、
カガリを始めソフィアに滞在するオーブの者たちが危険な状況下にあることに変わりは無い。――だから俺もソフィアに留まり護衛を務めるべきなのに・・・。
アスランは明日の早朝、EPUの移送艦でバルティカへ戻ることが
EPUオーブ間の協議により決定していた。
それは情勢の悪化に備え、
バルティカ紛争が大規模な戦争へと発展する蓋然性を踏まえた予防措置であった。
DDR部隊隊長としての立場からすればこの予防措置は妥当であり
むしろ今すぐにでも出立すべきだと考えるくらいだ。しかし。
一人きりの部屋の中で、アスランは心のままの表情を浮かべた。――カガリを護りたいと、思うのに。
オーブを護ることがカガリを護ることであること。
だから世界の平和を実現することが、カガリを護ることであること。
今でもアスランは、そう信じている。
だからもし、自分の力が平和を実現するために役立てるのなら
迷わず差し出す覚悟はいつでもある。
だけど今は。――今だけは、
君の傍にいたい。実現したい夢がある。
その夢を叶えることが出来れば、愛しい笑顔が見られるのだと信じている。
だから、どんなに君から離れても心は揺らぐことは無い、
夢を叶えるためなら。
そう信じているのに。――なのにどうして、実現したい夢と
今すべきことが交わらないんだ・・・。無意識に掌に力が込められ、ボトルの中のミネラルウォーターが跳ねた。
どんなに切に想っても、現実という時の流れは待ってはくれない。
アスランは切り替えるように息をつくと、
端末のメールボックスと通信履歴を開き、就寝前のチェックをしていく。
バルティカにいるオーブのDDR部隊からは通信を最後に特に連絡は無く一安心する一方で、
依然、キラからの連絡が無いことにアスランは胸騒ぎを覚えた。――無事・・・なんだろう、キラ・・・。
アスランはキラに呼びかけるような視線を窓の外へと馳せた。
窓枠に切り取られた夜空はコロニーの天井に描かれた人工物であると知っているのに、
どうしてだろう、宇宙を見上げずにはいられなかった。
と、その時アスランの携帯用端末が着信を告げた。
画面にはカガリの秘書官であるモエギの名前が表示されている。
この時間であればカガリは既に部屋に入り休んでいる筈だ、
そんなことを頭の片隅で考えながらアスランはモエギからの連絡を受けた。モエギは画面向こう側で小さく会釈をし、アスランに単刀直入に用件を伝えた。
“お休みのところ大変申し訳ございません。
至急、アスハ代表のお部屋までお越しくださいませんか。“「何か緊急を要することでも?」
アスランの緊張を孕んだような声に、モエギはくすぐったそうな笑みを浮かべて首を振った。
“いいえ。
ですが、大変重要なことです。
ザラ准将でなければ、叶えられないでしょう。“モエギの表情は朗らかで、カガリの身に何か起きた訳では無いことが読み取れる。
しかしモエギの言葉に含意された何かが分からず、
アスランはきょとんとした表情を浮かべながらも応えた。「わかりました。着替えてすぐに向かいます。」
アスランは就寝前だったためラフな格好をしていたが、
このままでは代表の前にでることは失礼に当たる。
しかし、モエギは律儀な准将に掌をぱたぱたと振った。”そのままで結構ですっ!
カガリ様もそうおっしゃっておりましたから。
それよりも、お早く。”ますますモエギの言っていることが分からなくなるアスランではあったが、
とにかくカガリの部屋へ向かうためアスランは通信を切った。
カガリの部屋の周囲には数名のSPが控えていた。
日中のことを考え当初予定していたよりも倍の数を配備させている。
アスランは彼らに敬礼をし、カガリの部屋の扉の前に立った。――一体どうしたというのだろう・・・。
カガリがアスランを呼び出した理由とは何であろうか。
依然連絡の取れないキラのことであろうか、
それとも突然姿を現したラクスのことであろうか、
テロのこと、
バルティカ紛争のこと、
これからのオーブのこと・・・。
今という時は、不安を抱かせる要素があまりに多すぎる。アスランはすっと息をすうと、重厚な扉を控えめノックした。
ガチャ・・・。
扉は微かな隙間をつくるように開くだけで、なかなか部屋の主は顔を出さない。
「あの・・・、代表?」
――これは入室を許可された・・・ってこどだよな?
アスランはそんな自問をし微かに開いた扉のノブに手をかけようとした時、
ノブの下辺りでブロンドの髪が淡やかに揺れた。――え・・・?
カガリの髪にしては高さが低すぎる、そんな状況に困惑して
アスランは扉のノブへ手を伸ばしたまま固まった。
すると扉の隙間から小さな手が覗いて、次いでウィルがちょこんと顔を出した。
その表情に、アスランの息が止まる。
ウィルは家族を数時間前に亡くして、小さな胸に消えることの無い傷を負って、
それなのにぎこちなくも精いっぱいの笑顔を浮かべている。
アスランは小さな大歓迎にウィルの強さを感じた。
その時、部屋の奥からパタパタとカガリが駆けてきた。
カガリが動くたびにブロンドの髪から水滴が滴り
頬や唇が淡く色づいていることから入浴直後であることが分かる。
足を止め、ふわりとネグリジェの裾が翻った。
距離が近づいてシャンプーの香が甘く広がる。
アスランは開きっぱなしの扉を今すぐに閉めたくなった。
だって、こんな姿を他の誰にも見せたくないと思うのは、
おかしなことじゃ無いだろう。
カガリは頬に張り付いた髪を耳に掛け、ウィルを抱き上げた。
その拍子に髪から滴る雫が華奢な鎖骨に落ちてそのまま豊かな胸のラインを滑り、
胸の谷間に消える前にアスランは視線を引きはがした。「ごめんな、准将。
ウィルがどうしても会いたいってさ。」ウィルはうすぐったそうに瞳を緩め、カガリも幸福な笑みを浮かべている。
そんな幸せな光景にアスランは安堵し、ウィルに手を引かれながらカガリの部屋に入った。しかし、高鳴る鼓動はどうしようもなくて理性を総動員させた。
そうしなければ、衝動のまま手をのばしてしまいそうだった。
愛しい人があまりに無防備だから。
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