9-17 霞のむこう
アスランはグラスに入った水を飲み干した。
先程カミュから勧められたロゼワインは唇をつける程度にとどめた。
ワインをこよなく愛したパトリックと酒豪だったらしいレノアの血をひくアスランは
酒には強い方であったが万が一の場合に支障をきたす訳にはいかない。――遅いな・・・。
カガリがカミュと共に出て行った庭に視線を向けて、思わず漏れた溜息に苦笑した。
気持ちを切り替えるように、今度はロゼワインに視線を滑らせた。
建国の祝いの席で数回出されたこのワインは、カガリが言った通り素晴らしいものだった。
透き通った甘みは、まるでそよ風のように体に優しく沁み入る。アスランはワイングラスを軽く揺らして香りから記憶をたどった。
ワインはさほど詳しくは無いが、いつもパトリックが楽しむ姿を見ていたからだろう
家族の思い出と共にワインの香りを覚えていた。――この香り・・・、父上のセラーには無かったか?
しかし、いくら記憶のページを繰ってもこの香りは見当たらず
――父上も、このワインを味わったことがあるのだろうか。
そんな思いに駆られた時だった。
一瞬にして空気を染め上げる爆音が
響いた。
アスランはホルスターから銃を抜くのと同時に
音源を一瞥し爆発現場がダンスホールであることを目視し、
続いた銃声と悲鳴、さらなる爆音を背後に置き去りにして疾走した。あれだけ鮮やかだった庭の木々が白濁していく。
――ガスを撒かれたっ?
鮮やかさを窶した花々の先へと駆けながら聴覚を研ぎ澄ます。
すると、爆発源であろうダンスホールの方角から逃げ惑うような悲鳴がやまぬことから
ガスの特性とその目的が自ずと絞られていく。
爆発に巻き込まれた者以外は多くが生存していることから、毒ガスではない、
ということは、無差別テロである可能性が低くなる。
視覚や嗅覚に異常を感じないことから催涙ガスでも無い、
ならばこれは――煙幕・・・まさか。
爆発の狙いは混乱であり、主犯の狙いは特定された集団および個人、
その目的は暗殺である可能性が高まる。一瞬で描かれる最悪のシナリオ。
カガリを失う、その恐怖が降り積もるよりも速く
アスランは誓いを胸に燈す。君は俺が護る――
名前を叫んだ。
応えるように、白い翼が煌めいた。
霞む視界に浮かぶ2つの影、
そのひとつをアスランが見間違う筈が無かった。
その距離まであと数秒。
しかし影の先から数発の銃声が響く。「カガリっ。」
と、左斜め前方から揺らぐような気配を感じると同時に銃弾が空を切るのが見えた。
アスランは体を捻りながら引き金を引き、
銃声の数秒後に何かが倒れる鈍い音がした、
が、その音がアスランの耳に入る頃には
既にカガリの前に立っていた。「アスランっ。」
背に触れる程の距離から聞こえたカガリの声色から無事を確認すると、
アスランは浅くうなずいた。
カガリをかばうような立ち位置で銃を構えながら、超絶なスピードで状況判断をしていく。
カガリの真横に立つカミュは、真っすぐに前を見据えている。
風上のダンスホールから流れる靄に、空気が揺らぐ。
その先に複数の気配を感じ、アスランの瞳が冷涼に鋭さを増す。
風に乗って聞こえる銃声と悲鳴、それが途絶えた一瞬だった。
カミュが、視線の先の者に語りかけた。「狙いはわたしか。」
「そなたが憎むのは、ソフィアか。」
「それとも、コーディネーターか。」
「そなた自身の、未来か。」
刹那、カミュの正面から打ち込まれた銃弾。
銃声が響くより先に揺らぐ空気。
そこに斑む殺気。
霞のむこう側にある真実。
そこから放たれるものは、何――
それは一瞬の出来事だった。
アスランは銃線を予測して、2発連射した。
一発目で銃弾を相殺し、2発目は銃線上の狙撃者を狙い、
同時にカガリの肩を抱き寄せ姿勢を低くしながら背後に撃ち込み、
さらに左斜め前方へ撃った。
4発の銃声が和音のように同時に鳴り響き、
小休止置いて重物が倒れるような鈍い音が3つ響いた。風向きが、変わる。
白濁する空気が過ぎさると同時に2つの足音が駆ける、
その方向へ射撃した銃声の後、鈍い音を最後に足音が途絶えた。
霞が消え去り、その先の光景にカガリの瞳が厳しさを増した。芝生の清緑に鮮やかすぎる程の血痕が散っている。
アスランの放った銃弾はすべて命中していた。
銃を握り締めたまま横たわる彼らの中には、レセプション会場のアテンダントの制服を着、
ある者は何処かの国のSPのスーツを着用し、
ある者は招待客のように盛装していた。戦場のありふれた光景はいつも、心に銃口を突き付けられたような気持にさせる。
この感覚に、心が慣れる日は訪れない、
麻痺してしまわない限り。カガリは引き結んだ唇をかみしめる。
爆発音、ガスの向こう側で感じる複数の目、殺気、
それらに恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。
オーブを“生きて護り抜く”と誓った、
ここで死ぬ訳にはいかない、
だから一瞬で突き付けられた死の存在は恐怖だった。
しかし、恐怖を凌駕する感情がカガリの胸にあった。
何故、と。
何故、尊き命を奪うのか。
何故、貴方達は破壊と暴力しか選べなかったのか。
何故、私達は貴方達にそれを選ばせるような世界を作ったのか。切実な問いに、返る言葉は無い。
アスランは平静の表情のままカミュに申し出た。
テロを起こした存在も明確な目的も特定できない今、
襲撃を仕掛けられたとしか考えられないこの場所に留まることは危険である。「こちらは危険です。我々と安全な場所へ。」
するとカミュはゆるく首を振り、淡く微笑を浮かべた。
「2人で、いきなさい。」
不自然な程静まり返った庭の中央で、カミュの声は不思議な奥行きを持つ。
未来を指し示すような。「でもお兄様っ。」
心から身を案じてくれるカガリにカミュは笑みを深めて、指差すように視線を馳せた。
「私の心配はいらない、護衛の者が間もなく到着する。
それに、テロリストの狙いが私ならば、貴方達は離れていた方が安全だ。」カミュの視線をたどれば、こちらへ向かってくる影が見えた。
カガリは素直に頷くと、ドレスの裾を持ち上げ大胆に切り裂いた。
「よし、これで走れるぞっ!」
と言ってしなやかな白い足をさらして足踏みをしたカガリを、アスランは抱き上げた。「あっ、コラっ、おろせっ!
ちゃんと役に立つぞっ!」そんなことを言っては足をばたつかせるカガリを抱く腕に
アスランは少しだけ力を込めた。
抱き締めるかわりに。
近づいた距離に、カガリの鼓動が高鳴る。
あまりに胸を強く打つから、痛くて息が止まりそうになる。
だからそのまま動けなくなった。
本当は、文句のひとつくらい言ってやりたいのに。
静かに、アスランの声が耳元に落とされる。
その声は言葉以上に心に響いて
恵みの雨が大地にしみ込むのに似ていた。「ごめん。
分かっている。
でも。」響きの奥にあるアスランの想いが聴こえた気がした、
だからカガリはアスランの首へ腕をまわした。
アスランの現実的な力になれない自分が悔しくてもどかしい、けど。「後方は・・・、私が見張っててやるからなっ。」
カガリのちょっとふてくされたような声に
アスランは冷え切った心が内側からあたたかくなるように感じた。
しかし、微笑みが浮かぶ瞬間に見つけてしまった、
カガリの睫に残った小さな雫を。――どうして・・・。
問いと同時にはじき出される答えに、アスランは鋭い視線をカミュに向けた。
一方のカミュはひまわりのような笑顔のまま、アスランの肩を叩いた。
その表情さえも腕の中のカガリの笑顔に重なるから、アスランの苛立ちをさらに煽る。「カガリのこと、頼むな。」
「失礼します。」
アスランの声色は感情を抑え込んだように硬く、手短に一礼をして駆けだした。
テロが起きた以上、この場所は危険だということは明白な事実で、
しかし本当は
今を理由にして、カガリを連れ出したかった。
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