8-9 縛めの約束を越えて
宇宙と地球が触れ合う境界線は宵闇に溶け合う。
過去と未来が触れ合うこの瞬間に夢と現実がたゆたう。
降りしきる粉雪の中で感じる頬のぬくもりに
想いが呼び覚まされていく。
夢から零れた涙は現実へと落ちていく。
頬をなでる指先。
不器用な程優しすぎるそれが、
誰のものであるのか瞳を開かなくても分かる。
そのぬくもりを忘れられるはずが無かった。
――嘘・・・だろ・・・
――どうして・・・
頬に触れる指先を求める。
――夢の筈・・・
そのぬくもりが欲しいから。
――違う・・・、
夢でなくちゃいけない・・・。
手を伸ばして、触れて、
――アスランが
傍にいるなんて・・・。
本当は、あなたの胸に抱かれていたい・・・
そう思う自分はなんて弱いんだろう。
そんなことを望んではいけない。
叶ってはいけない。
あなたを護ると決めたから。
心地よい海風に感じる潮の香と、
萌芽するような朝露の香がする。
遠く聴こえる潮騒に
記憶の向こうの母の鼓動を思う。
地球の息吹に誘われるように
カガリは夢から覚めた。
開いた瞳の先のアスランの表情が
あまりに優しくて胸が詰まった。
涼やかな色彩の瞳に熱を感じて
視線がぬくもりを持つことを知っていた自分に気付く。
このぬくもりにずっと護られていたことに、
それが今も、真直ぐに自分に向けられていることに。
「おはよう。」
アスランの声を聴くだけで心が震える。
――言わなくちゃ。
私は大丈夫だから、と。
言葉は喉元で止まったまま締め付けるような痛みばかりが広がっていく。
――言わなくちゃ・・・。
言わなくちゃ・・・。
確かにそう思うのに、
麻痺したように唇は動かず、
ただ瞳に熱が立ち上り
涙と一緒に想いが零れそうになる。
涙が零れれば、
アスランの指先が頬を撫でるから。
そのぬくもりが欲しいから。
アスランと離れるための言葉を告げようと
吸い込んだ息は、胸が軋んで喉元にも届かなかった。
砕けそうな心は抱えきれない、
今にも全部零れ堕ちる、
でもそんな事はどうだってよかった。
アスランを護りたい、
ただそれだけだった。
――護らせて。
――大切なんだ。
――私の
大切な人なんだ、
想いなんだ。
強くそう願っているのに声にならなくて、
カガリは腕を後ろについて体を起こそうとした。
声にならないならせめて大丈夫と、示したかった。
しかし、うまく力が入らない軸腕で震える体を支えられる筈が無かった。
――動けっ。
身体に願いは追いつかず
想いばかりが止め処なく込上げるから
瞳に熱い膜がはっていく。
――やっ、駄目だっ。
バランスを崩して自然と俯く形となったカガリの表情は
朝露を含んだ髪で隠された。
それは、カガリが涙を隠そうとしているからだとアスランには分かっていた。
その仕草が自然な分だけ
自分へ向けられたカガリの優しさの深さを示しているよう
でアスランは微かに唇を噛んだ。
いつも潰えぬ希望の燈し火を湛えていた暁色のカガリの瞳は
絶望に光明を失っていた。
同じ色彩をアスランは幾つも見てきた。
彼らの末路も。
カガリは今同じ闇の中にいて
そしてきっと彼等よりも深い淵にいるのだろう。
全ての罪の創造主はコーディネーターだ。
フリーダム・トレイルにおいて創られたナチュラルであるカガリが
コーディネーターであるアスランに底知れぬ憎悪と
どうしようもない哀怨の念を抱いてもおかしくない。
むしろ、自然な感情とすら思える。
その宿命を負いながら
それでもカガリが向ける直向な優しさに
アスランの胸が軋んだ。
――君は優しすぎる・・・。
アスランは身を起こそうとするカガリの腕をそっと引いた。
ただそれだけでカガリは息を呑んで瞳を瞠り、
次の瞬間、
微かに唇を噛んだ。
まるで、何もかも押し留めるように。
その仕草に、
今の自分とカガリの距離を知り
アスランは想いを伏せるように薄く瞼を閉じた。
隣にいることも
触れることも
想いを伝えることも
2人は許されない。
君を
あなたを
許せないのではない。
自分自身を許せない。
だから、アスランはカガリの腕から手を引いて、
カガリは離れたぬくもりの寂しさを胸に仕舞う。
それは
2人の縛めの約束だった。
交わすことも指切りもしていない、
それでも愛するように大切に
2人が護り続けてきた約束だった。
カガリの震える唇に言葉がのるより先に
アスランが常と変わらぬ穏やかな声で問うた。
「ウズミ様と、話はできたのか。」
"自然な距離"が、
2人によって寸分の狂い無く、
作られていく。
本当は、こんなに器用になんてなりたくなかった。
「何も、言ってくれないんだ・・・。」
小さく首を振ったカガリは寂しさが滲んだ視線を墓石に向け
そのまま頬に長い睫の影を落とした。
しかし、顔を上げたカガリは奇跡のように綺麗な微笑みを浮かべていた。
「でも、大丈夫だっ。」
そう言って笑顔を見せて
震える膝を隠しながら立ち上がるカガリに、
――俺は何も出来ないのだろうか。
――俺が、コーディネーターだから
――過去に君を、泣かせたから
――君を、護れなかったから
「心配かけて、ごめんな。」
もうすぐ夜が明ける。
地平線の向こう側から、息吹きのような光の気配がする。
海風に靡く髪を押さえるように耳にかけ
ワンピースの汚れを一払いしカガリは海を望むように背を向けた。
細い肩は、微かに震えていた。
――飲み込んでいるのは
涙だけじゃないのだろう。
――君はまたひとりで
痛みを抱きしめるんだろう。
「もう少ししたら、ちゃんと帰るから。」
――俺が君をひとりにしたということも、
罪を負った人種であることも、
分かっている。
――それでも。
――今だけでいい、許して欲しい。
――君を護ることを。
――許したい。
「だから、アスランは戻って・・・。」
刹那、
縛めの約束を越えてアスランはカガリの手を取り
抱きしめた。
繋ぎ留めるように、強く。
カガリの言葉は結ばれること無くアスランの胸に塞がれた。
見開いたカガリの瞳から零れ落ちた涙が
輪郭を滴る前に
アスランのシャツを染めた。