8-6 真実の雫



ウズミの墓はオーブの広大な海を臨む小高い丘の上にある。

下弦の月のやわらかな光が漏れる森を抜ける細い道を
アスランは疾走した。
鼓動はけたたましく鼓膜を打ち
呼吸は酸素を渇望するように乱れて
寥寥とした焦燥に思考が凍てついていく。

――カガリっ。



クォンの言葉は今も、呪縛のように繰り返す。

『これは俺の尊厳だ。』

クォンの地を這うような声も、
絶望に眼光を失った瞳も、
深紅の血液の熱さも
一欠片も風化する事無くアスランに再現前化する。

『何も知らなかった。
何も知らないことは罪だ。
俺は、生命を汚した。』

メンデルの事実を浴びて、
一瞬にしてコーディネーターという存在そのものが揺らぎ瓦解した。
最後に残された一雫のような、
生命の尊厳を飲み干すようにクォンとダニエルは命を絶った。

『俺の血に、細胞に、
人間の欲望が、
負そのものが沈殿している。
汚れ、そのものだ。』

メイリンは、尊厳を保持するために死を選ぶことも
生を望む強さも持てず
未だ壊れた心を胸の中に容れたまま、何も動かない。
生を選択したコールマンにさえ、
メンデルの事実は瞳に影を残し
それは蝕むように精神を侵食していった。

真実は希望の光を得る前に、
事実の闇に飲み込まれていく。

『そのファイルは人を殺す。
内側から壊す。
プラントを砕く、粉々に。
細胞1つ残らぬ程に。』

フリーダム・トレイルというファイルに記された
自由への軌跡に残された血塗られた足跡。
それを見た者の末路にも、
同じ足跡が残された。

『生まれてきた意味を考えることなど、無意味だと。
生そのものが悪の象徴だと、
何故気が付かなかった。』

事実を知ったキラは自己の存在を否定し、
世界を閉じた。
キラは生を放棄すること、
それを真実と選んだ。

『生まれてこなければ、良かった。』

それが、真実となる。

『僕は死ななくちゃいけないっ!
生きていたら、いけないっ!!
生まれてきたら、いけなかったんだっ!!!』

この世界に生まれてきたことも
存在することも、
罪になる。
その罪は、
息をする度に突きつけられる。

『僕を望んでっ、あの人たちは殺されたっ!!
僕がいるから、あれが真実になるっ!!』

故に、罪を認めるならば
罪を償うならば、
自分の命も存在すらも抹消しなければならない。

“細胞ひとつ残らぬ程に”。

『消さなくちゃいけないんだっ!!
僕も、
身体も、
遺伝子もっ!
全部っ!!!』

血塗られた軌跡を終えるために
愛する人を護るために、
砕かれた心から血の涙を流しながら
キラは自己の終焉を遂行した。

キラの答えも、
クォンとダニエルが示した真紅の尊厳も、
コールマンの瞳から消えた光も、
メイリンが今も直巣食われている闇も、
全て真実となり得る。
何故ならば、
事実から真実を規定するのは自己であるから。

真実は、
自己においては一つでも
世界においては一つでは無い。
それこそ、
人の胸に燈る命が一つで無いように。

――カガリ、
   君の真実は・・・っ。




空を押し上げるように腕を伸ばす木々を海風が揺らし、
潮騒の旋律が香と共に強まっていく。
苔が生した天然石の石段を数段飛ばしで駆け上がれば、
宇宙が開いて満天の星の瞬きが瞳に触れる。
宇宙と地球が触れ合う境界線が見え
その先にウズミの墓がある。
最後の石段に足を掛けてアスランの身体は反射的に強張った。
まるでその先へ進むことを自動制御するように、
精神に深く根を張った理性が働く。
いつもであればこれ以上近づくことは出来ない。
この先に、一人で想いを抱きしめている君がいるから。
それでも、

――カガリはっ。

アスランは一瞬過った躊躇を突き放して
最後の一段を蹴って
可視化されない境界線を越えた。




丘を登るように吹き寄せた海風に煽られる。
目を細めた視線の先に、
下弦の月の光に照らされてぼんやりと白く浮かび上がった墓石が見えた。
いつもであればそこに居る筈のカガリの姿が無い。
アスランは目を凝らした。
そして、墓石の影に堕ちた、
真綿のように真白な色彩が瞳を刺した。
「カガリっ!」
息を呑む間も無くアスランは駆け寄ると、
そこにはウズミの墓石の前で横たわったカガリがいた。
まるで胎児のように体を丸め、
胸に両手を抱きしめて。



鼓動が一つ大きく打って
そのまま凍りついたような気がした。
音も匂いも色彩も思考も声も全て抜け落ちたような、
いや、自分だけがそこから堕ちたような感覚だった。



それでも、
戦場を駆け抜けて身についた理解を超えた状況判断で
体が勝手に動いていった。
感情など、
追いついてこなかった。


カガリの呼吸を確認するために顔を寄せた、
その時だった。
「おと・・・さま・・・。」
小さな唇が確かに震えた。
そよ風に靡く花びらのように、微かに。
「い・・・ま、何てっ。」
アスランがカガリの口元に耳を寄せれば
規則正しい小さな呼吸が確かに聴こえ、
首筋に手を当てれば確かに生命の律動に触れることが出来た。

「生きてる・・・。」

そう言葉にした瞬間体がその現実に呼応し神経が一気に緩んだ。
崩れるようにその場に座り込んだアスランは、
今更のように酸素が不足していることに気付いて肩を揺らして呼吸をし、
喉が絞まるような痛みを覚えては、
もどかしげに頭を振った。

一気に汗が噴出した体を冷ますようにシャツのボタンを開けようとしたが、
指先が震えて力が入らない。
カチ、
カチ、
と爪がボタンを弾いていく、
その様が滲んで歪んでいく。

「あ・・・、俺・・・。」

指先に雫が落ちて初めて、
アスランは自分が泣いていることに気が付いた。

――俺は、恐かったんだ・・・。
   カガリをなくすことが、
   たまらなく恐かったんだ・・・。

自覚した感情は痛みを伴い
容赦なく体を震わせるから、
アスランは立てた片膝に額を押し当て
堪えるように抱きしめた。



夜明けを待つ潮騒は、
どこか優しく感じられた。
子を撫でる母の手のようにやさしく、
海風が通り抜けていく。

地球に抱かれている。

海風に誘われるように視線を上げれば
月の光も星の瞬きも輝きを窶し
瑠璃色の宇宙の先に夜明けの気配を感じた。
隣に眠るかけがえの無い存在に目を向ければ、
海風に髪が揺れたからだろうか、
擽ったそうに身をよじっては無垢な微笑みを浮かべていた。
アスランは着ていたジャケットをカガリに掛けながら、
つられるように微笑みを浮かべた。

――こんなに安らかに眠っているんだ。
   きっと、キラがちゃんと伝えてくれたのだろう。

無意識にそっと、カガリの髪に触れそうになった手を
アスランは止めた。
カガリに触れないこと、
それはアスランが自らに科した縛めだった。

――感情にも、
   君自身にも、
   触れれば痛みを感じるのは君の方だ。
   それとももう、 
   何も感じなくなる程
   俺達は離れたのだろうか。

薄く瞼を閉じて止めた手を収めようとした時、
くしゃりと、衣擦れの音がした。
見ればカガリが、
小さな手でアスランのジャケットを握り締めていた。
アスランの胸を一つ大きく鼓動が打った。
それは、まだ 2人が恋人と呼べる関係にあった頃、
アスランの胸に顔を埋めてカガリが声を殺して泣く時の仕草だった。
ジャケットに頬を寄せたカガリの細い肩は儚く震え、
くぐもった小さな声は涙に濡れていた。

「・・・アスラン・・・。」

――嘘だろ・・・。

胸を打った鼓動があまりに痛くて息が止まった。
痛みの分だけ熱が瞳に立ち上り視界が霞んでいく。

夜明け前のまどろみに
過去の君が、今もここにいる錯覚を覚える。
変わらずにここにあるアスランの想いのように。

アスランの行き場の無くなった手がカガリを求める。
震える指先を押さえ込むように掌を硬く結んでも
何もかも止まらなかった。

だから、
精一杯やさしくカガリの頬に触れ
長い睫に浮かんだ雫のような涙をそっと拭った。

「カガリ。」

名を呼んだ、
アスランの声には包み隠さぬ愛しさが溢れていた。 

 



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