5-5 幸せの花
「ねぇ、ねぇ。」
ケイはキラを映したような人懐っこい笑顔を浮かべて
壮年の男の下へ跳ねるように駆けて行った。
シルバーグレーの髪を揺らし、振り返った男は仮面を身に着けていたため
その表情は判別できない。
真一文字に引かれた口元からは厳格さが感じられ、
ごつごつとした大きな掌はまるで彼が掌握しているものの大きさを表しているかのようだ。
しかしケイは彼に物怖じする事無く、
むしろ何物にも束縛されない自由な空気を纏いながら
屈託の無い笑顔を浮かべていた。
「ねぇ、マキャベリっ!」
ケイはそう男を呼んで立ち止まった。
「あっ、どっちの名前で呼んだらいい?」
小首をちょこんとかしげて、ケイは宇宙を見上げるように上を向いて考え込んだ。
マキャベリと呼ばれた男は纏った重厚な空気を変える事無く答えた。
「どちらでもいい。
どちらも、存在しないのだからな。」
その返答に、ケイは眉間に皺を寄せ腕組をし
「う〜ん・・・。」
全身全霊で考え込み、
そして・・・。
「ねぇ、どっちの名前が好き?
好きな方で呼ぶからさっ。」
名案だと顔に書いたような表情のケイをよそに、男はケイの問いをかわしていく。
「何かを聞きに来たのではなかったか、ケイ。」
有無も言わせぬような重力を持った声に、ではなく
男の指摘した内容にケイははっと息を呑んだ。
「そうそう!僕、聞きたいことがあったんだ!」
ケイは恥ずかしそうに頭を掻きながら小さく笑った。
「あのね、アスランってどんな人?」
問われた男の表情は顔半分を覆った仮面によって読み取ることが出来ない。
仮面の奥の瞳に何を映しているのか、
それはその胸の内と同様知るのは本人だけだ。
「お前はどう思うのだ?」
不意に返された問いに、ケイは一瞬目を見開き真ん丸い瞳を露にしたが、
その紫色の瞳は柔らかく細められた瞼によって隠された。
「アスランって、とっても優しいんだっ!
僕、アスラン大好き!。」
ケイは無邪気な笑顔をぱっと咲かせた。
それを見た、男は思う。
知らぬことは本当に罪であるのか、と。
知らぬこと、染まらぬことの、穢れ無き清らかさも、
真綿のように柔らかく真白な輝きも、
存在自体の尊さも、
“罪”と名づければ全てが捨象され、
“罪”以外の何物でもなくなる。
男の思考とは別次元で、ケイは自由に夢を描く。
「僕、アスランと友達になりたいんだっ。」
えへへ、と子どもらしい笑みを零し頬を上気させるケイを他所に
男は低く小さく呟いた。
「変わらずにいるのか。
アスラン・・・。」
その呟きとは別次元にトリップしていたケイは、名案だと言わんばかりに両手を叩いた。
「ねぇ、ねぇっ!
アスランの小さい頃のお話、聞かせてよっ!
覚えてるんでしょ?」
男の袖を引きながら跳ねるようにせがむケイに男は微かな笑みを向けるだけで、
衣を翻し席を立った。
「ラクス、少し花を分けてもらえないか?」
そのアスランの意外な申し出に、ラクスは大輪の花のような笑顔を向けた。
「はいっ、喜んで。」
その無邪気な笑顔は、2度の戦争の前と何等変わらないと、
アスランは思う。
キラの腰掛けた車椅子を押すアスランに、
キラの手を取ったラクスが2人で案内しているような格好で3人はクライン邸の庭園を回った。
もちろん、キラは口を開くことは無かったが、
それでも花々一つひとつが2人の思い入れや思い出に溢れるものであることは
ラクスの言葉の端々から香っていた。
植物園のように花々は多種多様であるのに、
一つひとつの香りが他の香りとぶつかりあうことも
他を殺すことも邪魔することもなく
それぞれの個性を表しながらも一つのおおらかな空気に溶け込み
芳しい香りで満たされていた。
香水の類が苦手なアスランであっても、
この香りにはふっと気持ちが和らいでいくのを感じた。
そして柔らかな日差しの下に思う、
ラクスが描く世界とはこのような世界なのではないか、と。
クライン邸の庭園の中央に位置する薔薇園では色とりどりの薔薇が咲き乱れ、
その一つの傍に立ち、ラクスはふわりと微笑んだ。
「アスランは、こちらの花をお探しなのではありませんか?」
淡いグリーンの花びらを幾重にも重ねたその薔薇が風にそよぎ、
アスランが答えるより先に頷いたように見えた。
アスランは驚きのあまり、1拍返答が遅れた。
「えっ、あぁ・・・。そうだ。」
探していた花とは、紛れも無く今ラクスが触れているグリーン・アイス・グランデだった。
目的の薔薇の花を言い当てられたこともさることながら、
その花が存在すること自体もアスランを驚かせた。
何故なら。
「確か、クライン邸には無かったと記憶していたが。」
ラクスはあまりにアスランらしい反応にくすくすと笑みを零した。
ホイップクリームのように、軽く甘い笑顔。
それがラクスの小さなサプライズが成就した時の笑顔であることを知るのは、
おそらくキラと、父である今は亡きシーゲルだけであろう。
「お花が咲きましたらお見せしようと、
思っておりましたの。」
そう言ってラクスは真白な指で翡翠色の花びらに触れた。
「この花は、レノア様がお好きなのでしょう?」
その問いと、桜色の髪を揺らして振り向いたラクスの聡明な瞳に
アスランは二の句が継げずにいた。
唇に笑みを含ませながら、ラクスは胸元に両手を当て
何かを思い起こすように瞳を閉じた。
「アスランが、初めてわたくしの庭をご覧になった時
何かを探しているように思いましたの。」
ラクスの言葉ひとつによって、庭園の時空は幼きあの時に遡る。
ラクスの歌うような声と、
色とりどりの色彩と、
幾重にも重なった芳しい香りと。
あの時、ラクスの言葉に耳を傾けながらも視線は彷徨い
一つの花を求めていた。
「この花だったのではないでしょうか。」
現実の声が過去と重なり、溶け合っていく。
アスランの目の前に居るのは現在のラクスであるのに
過去の奥行きを含む分何処か懐かしさを感じさせる。
「そうだ。その花を探していた。」
アスランはそっと瞼を閉じると、そこに浮かんだのは
レノアの穏やかな笑顔とその横に。
「父上が――。」
ラクスは驚きを飲み込んでアスランの続く言葉に耳を傾けた。
何故なら、父を呼ぶアスランの表情が痛ましく歪むことが無かったのを
ラクスは初めて目にしたからだ。
胸の内に仕舞いこみ、
それでも忘却することも逃げることも無く
一人で背負い続けていたアスランにとって、
父の名も存在もあまりに重く複雑だった。
そのアスランが優しい表情で語る父名の響きに
ラクスの胸は満たされていった。
「好きだったんだ、その花が。
初めて母上に送ったのも、その花で。」
一つひとつの言葉を大切に置くように、アスランは言葉を紡いだ。
「だから、母上はその花がとても好きだったんだ。」
寡黙なパトリックは言葉が少ない分、行為に込められた思いが強く響く。
この花に込められたレノアに対する思いを知ることは叶わないが、
アスランは思いを馳せてその欠片に触れようとする。
そして何時も愛おしげに花を眺めていたレノアの思いに。
そんな父と母の姿を見るのが、とても好きだった
あの頃の自分に。
「そうでしたの。」
そう言って視線を上げたラクスの瞳に映ったのは、
穏やかな微笑みを浮かべるアスランだった。
「幸せの花、ですわね。」
ラクスの唐突な言葉に、アスランの思考は追いつかなかったが
それでもその響きの優しさは感じ取っていた。
アスランに微笑みを浮かべながら、ラクスは続けた。
「パトリック様と、レノア様、
そしてアスランの思いがこの花には込められておりますから。」
幾重にも重なる花弁のように折り重なった思いが
香りとなって風に乗って運ばれていく。
――花の香が、祈りと共に
あなたに届きますように・・・。
アスランが思い起こした言葉はオーブの慰霊碑に刻まれたものだった。
【補足】
今回登場した“グリーン・アイス・グランデ”は架空の薔薇の花です。
グリーン・アイスとは淡いグリーンのミニチュアローズの名前です。
花の色が変化するのが特徴で、蕾から開花までは
ホワイトにパウダーピンクが挿し、やがてクリームイエローからライムグリーンへと変化します。
小さな花びらを幾重にも重ねてふんわりと咲く姿が可愛らしい花です。
今回はそのグリーン・アイスに品種改良を加えたものとしてグリーン・アイス・グランデという架空の薔薇を登場させました。
大きさはその名の通り、ミニチュアではなく一般的な大きさに変更しました。
また、グリーン・アイスは無香もしくは微香なのですがグランデは自然に香る程度に変更いたしました。
以上、補足させていただきました。
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