5-29 君の名



「ムゥっ。」

マリューは押したように静かな声で呼びかけ、
呼応するようにムゥは無機質な病室のベッドに横たわるカガリの傍へ駆け寄った。
カガリの手を祈るように握り続けたマリューに寄り添うように。

「意識が戻ったのか?。」

マリューはカガリの瞼を注視し、

「まだ・・・、
でも、さっき微かに動いたような気がしたのよ。」

ムゥはベットの横に備え付けられた機器に視線をやった。
心拍も血圧も、予断を許されない数値が変化することは無く、
カガリは意識を取り戻す事無く眠り続けている。



数日前――
慰霊碑の前で花を植え、民とともに祈りを捧げていたあの時、
花で溢れる大地に眠るように、カガリは意識を失った。
救急隊によって国立病院へ搬送される途中で心肺停止し、
懸命な蘇生治療により一命はとりとめたものの
断続的に心停止に陥り、危篤状態が続いていた。
混乱を避けるため公には、体調不良のため養療中としていたが、
現実は、いつ命の火が消えてもおかしくない状況であった。
蘇生治療を行う医師を悩ませたのは、
カガリの症状の原因がいくら検査を重ねたところで特定できなかったことである。
つまり、カガリの延命と快方のための現実的な処置を行うことは叶わず、
ただ、停止した心臓を動かすことで命を繋ぐ、
できたのは、それだけだった。



ムゥはおもむろに窓の向こうの澄み渡った空へ視線をやり、
窓枠へ手をかけた。
眼下にはマスコミやカガリの安否を気遣う国民で溢れかえっていた。
今回の症状の原因のひとつが激務による心労が無縁であるはずがないとの見識から
侍女のマーナと付添い人以外の者がカガリの病室に訪れることはほとんど無かったに等しかった。
その付添い人となったのが、産休中のマリューとその夫、ムゥであった。
マリューは微かな変化も見逃さないように、
微かでも変化が訪れるよう祈りながら、カガリの蒼白の貌に面差しを向けた。
ムゥは根を詰めすぎるとマリューの体に障ることを案じ、
しかしその真面目すぎる優しさを愛おしく思いながら
マリューを支えるように背中を撫でた。

その時、全ての音を遮断するような病室の扉の向こう側から
疾走する足音が微かに聞こえてきた。
ムゥとマリューは驚いたように顔を見合わせると、
2人同時に
「あっ。」
同じ人物を思い描き微笑みあった。
マリューはくすくすと口元に幸せな笑みをのせた。

「今、一番、カガリさんにとって必要な人が、来たのね。」

ピタリと止まった足音の後、
控えめなノックの音が響く。
「どうぞっ!」
と言うよりも早く、ムゥは病室の扉を大きく開け放った。
そこにいたのは、
大きな花束を持ったオーブの紅の騎士だった。



米神に浮かべた雫や乱雑に開かれたシャツのボタン、
乱れた藍色の髪から、走ってきたことがうかがえる。
恐らく、全力疾走で。
アスランは病室へ一歩入ると、律儀にも最高敬意の敬礼をし公の態度を示そうとする。

「失礼いたします。
クライン議長よりのお見舞いの品を・・・」

公でなければこの病室に入室することはできず、
そして公の態度でなければカガリに接することは叶わない。
一将校と一国の代表、
それは、2人の身分を考えれば当然のことだった。
もはや、恋人では無いのだから。
アスランの腕に抱かれた大きな花束には“ラクス・クライン”の名が刻まれている。
ラクスから見舞いの花束を頼まなければ、
恐らくアスランはこの場へ来ることも無かったであろう。

思いは胸にしまい、
伝えることも行為ととして現すことも決してしてはいけない。
共に描いた夢を実現するために、
こうなることを選んだのは、
自分たちなのだから。

アスランとカガリを見守ってきたムゥとマリューは、アスランの想いを痛いほど良く知っているが故に、
想いとは間逆の態度を誠実に貫くアスランの姿はあまりに痛ましかった。

「いいって、今はっ。」

ムゥは表情を歪ませ、半ば強引にアスランから花束を引き受けると
カガリの傍へと腕を引いた。

「え・・・、あ・・・。」

アスランは戸惑いの声を漏らしながら、
ムゥに引きずられるようにベッドの前に突き出された。


瞳に映るのは、
嘘のように安らかに眠るカガリと、
目を刺すようなシーツの白さに溶ける
真白な肌。

頭が真白になって、
白い灰が足元に降り積もったように体が動かない。

戦場を駆けて研ぎ澄まされた
命が消える瞬間を感じ取る感性が
言っている。
カガリの命の火が
消えようとしていると。



「・・・。」

アスランの唇が、カガリの名を形作るその瞬間、
それを反射的に拒む自分がいた。
カガリから“アスラン”と呼ばれなければ、
アスランはカガリを“カガリ”と呼ばない。
それは、アスランが決めた傷つけないための予防線だった。
カガリが名を呼ぶ時は、
公とわたくしの間の戦友としての距離にあった。
その時以外、アスランはカガリを“カガリ”と呼ぶことを許さなかった。
不器用な程誠実に貫くのは、
それほどアスランがカガリを愛しているからだ。
この道を選んだ、カガリの思いを誰よりも大切にしているからだ。

でも。

それでも、死の淵にいる愛しい人を呼ぶことも
許されないのだろうか。
かつて彼女を泣かせたのは彼だから。



望まぬ再会に立ち尽くすアスランを横目に
ムゥはマリューに目配せをし
「花、飾んないとな。」
「そうね。」
アスランとカガリだけの時をもたらすように、2人は部屋を辞そうとした。
しかし、2人の足を止めたのは
低く掠れたアスランの声だった。

「ここに、居て下さい・・・。」

寒気を感じる程に穏やかな口調が、
眼前の現実とはあまりにかけ離れ
2人は目を見開いた。
視線の先に映ったのは、
熱のこもった面差しをカガリに向けながらも
想いを一雫もこぼさぬように押さえ込んでいるアスランだった。

「ここに、居て下さい・・・。
自分を抑える、自信がありません・・・。」

――今すぐ君を、抱きしめたい・・・

アスランはくしゃりと表情を歪め、
カガリから視線を外す事無く
何かを振り切るように、首を振った。

「お前なぁっ!」

愛する人の危篤を目の前にしてもなお、
言葉にすることも指きりもしていない約束を守り続けるアスランに、
ムゥは憤りを感じながらアスランの肩に手を置いた。
ムゥを制するように、
「アスラン君。」
マリューは聖母のようにあたたかな微笑みをうかべると、
アスランの腕を引きカガリの枕元へと促そうとした。
それでも、アスランは何かを拒むように体を硬直させた。

それ以上カガリに近づくことを許せない。
自分を、許せない。

マリューは胸に苦味を覚えながらも、
渾身の力を込めてアスランの腕を引き、
押さえ込むようにカガリの枕元へ座らせた。

「手を、握ってあげて。」

静かに強く、マリューはアスランに告げる。
マリューの言葉に戸惑いながらも、
アスランは手を伸ばさずとも触れられる距離にあるカガリから
瞳を逸らすことが出来なかった。

「お願い。」

そう言って、マリューはアスランの手とカガリの手を結んだ。

嘘のように安らかに眠るカガリの手は
生きている人とは思え無い程硬く冷たく凍り付いていた。
瞬間、アスランは瞳を見開き
カガリの魂を繋ぎ留めるように指を絡め
あいた掌も重ねた。


――抱きしめることは出来ない、
   これ以上、君に近づけない。
   それならば、
   せめて、
   君の名を呼ばせてほしい。
   君の名を呼ぶことを、
   許してほしい。

――許したい。


「カガリ・・・。」

アスランはカガリの名を呼んだ。
初めて、戒めの約束の境界線を越えて、
自ら愛しい人の名を呼んだ。

「カガリ・・・。」

君に、届くように。
君と共に生きることを、望んで。
君を、望んで。

魂が呼び合うように。   



← Back    Next →                       


Chapter 5   Text Top Home