5-22 燈し



オーブの大地に たった今根を下ろしたコスモスの苗が、
夫婦の目の前で風に揺れる。
大空へ葉を伸ばすその有様が
純粋に未来を志向するように思われて、
夫婦は瞳を閉じたくなる。
それでも、この花は亡くした息子を示すものであるから。
もう一度会いたいと切に願い、
もう二度と見ることも叶わない、
彼を示すものであから。
だから本当はいつまでも見詰め続けていたと思うのに、
生命力に溢れる若葉が彼等の胸を刺す。
何故なら、光を透かす新緑の先に見てしまう彼は
もう生命とは無縁の場所にいるのだから。
そして今も、
自分はこのコスモスと同じ この大地の上で
陽の光を浴びながら風に揺られながら
生きているのだから。

「こんなことしても、イヴァンは帰らないっ。」

夫は植えたばかりのコスモスに手を伸ばし、一気に引き抜こうとした。
妻は夫の腕に縋り付き、 真っ赤に腫らした目を腕に押し当て懇願した。

「止めてぇっ! ・・・、あなたっ・・・。
もう、止めましょ・・・。」
「離せっ! イヴァンは、 勝手に家を出てって・・・っ!
勝手にこいつに殺されてっ!!」

夫は目を剥きカガリを睨みつけながら指差し、
そして迸る感情のままに妻に罵声を浴びせる。

「いつも俺達に何も言わねぇでっ!!」

夫は妻と同じ泣きはらして朱に染まった瞳を見開き
声を荒げて妻を振り払った。
まるで、何かを振り切ろうとするかのように その表情は切実で、
振り上げられた腕も 握られた拳も
何かを打ち砕かんばかりに強かった。
それは、哀しみと憎しみと憤りと・・・
名前をつけることが出来ない程交じり合った感情の影だった。
どんなに声を張り上げても
どんなに強く腕を払っても
消えることも
掴むことも
潰すことも 叶わない、
行き場の無い感情だった。
可視化されず、 だがしかし確かに実態を感じる
感情の影へ向かって 拳を振り上げた夫の胸に飛び込んだカガリは、
小柄で筋張った背中に手をまわし 抱きしめた。
魂を重ね合わせていくように、
その腕に手に力を込めて。

「何するんだっ!
俺はだまされねぇっ!
“燈し”だか何だか知らねぇが、
そんなんで、 何が変わるっていうんだっ!!」

ただ黙って、 耳を澄ませて 抱きしめる。

「俺は許さねぇからなっ!
お前もっ!
イヴァンもっ!」

胸の鼓動に耳を傾けて。
その向こう側から聞こえてくる
声にならない声に
耳を澄ませて。
彼が抱く哀しみに光を集めるように。
痛みにそっと、
掌を当てるように。
苦しみに寄り添うように。
彼が馳せる亡き人への思いに
自分を重ねるように。
重ねた胸に
燈火を燈すように。
ただ、 抱きしめる。

夫の鼻の直ぐ下で、柔らかな金糸のような髪が潮風にたなびき
ふわりと舞う度に洗いたてのシャツのような陽だまりの匂いが香った。
その香はあまりに感情を包み込むから、
自らの胸に一国の代表が埋まっているこの不可思議な状況も
自らが抱く名も付けられない感情も全て
許されるような気を正気で抱いてしまう。
許しなど己にも世界にも無かった彼にとって
あまりに非現実的すぎるこの現実を
無理矢理“現実”に引き戻さんとするように、
彼はカガリを引き離そうと手を伸ばした。

が、 その手が止まる。

彼が感知したのは、自らの内発的異変と外的異変の連鎖であった。
先ず感じたのは胸に触れるカガリの熱さと、
まるでそれに応えるが如く熱を持ち始めた、胸の奥だった。
自らの意識とは別次元で進行していく変化に
敏感に追従したのは体であった。
渦巻いた感情の糸が切れたと同時に
動きを止めるほど硬直した体は、
解き放たれたように軽くなった。
訳も分からず自らの頬を滔々と伝う涙の存在に、
そのあまりのあたたかさに、
打たれたように時が止まり、
零れ落ちる涙のテンポで
止まっていた感情の時が
新たに刻まれていく。

「くっ・・・ ぅ・・・・あぁ・・・・」

自らの思いが 意識とは無関係に
声になっていく。
言葉にならない声は
ただ空に溶けるだけの儚き音ではなく、
確かに他者の胸に響き
心に染み入るように届いていく。

胸に感じるカガリの 燈火のような熱さを、
確かに感じる。
そこに受容であるのだと本能が言うから、
潰れそうに痛む胸から感情が溢れて
声になって零れ落ちていく。




カガリはただ、黙って抱きしめる。
決して消えない希望という名の火を 胸に燈して。
小さくとも尊い光を放つ火を うつすように。
あなたに、燈すように。
何人もの遺族を、
カガリはそうして抱きしめてきた。

ある者は言った。
“カガリ様に抱きしめられて、
胸に火を燈されたような心地がした“、と。

いつしか人は、 そのカガリの行為を “燈し”と呼ぶようになった。
胸に希望の燈し火を燈していく、
大地の女神の神聖な抱擁――。

しかし、当のカガリは太陽のような笑顔を浮かべて こう言い放った。

『燈されているのは、私の方だ。
小さくとも消えぬ火を、誰もが胸に抱いている。
私はそう信じているぞ。』 




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