5-11 箱庭の空
ガラス張りの壁からは柔らかな日の光が差し込み、
その先には抜けるような青空が続いている。
しかしそれは人間の英知によって
存在する色彩である。
その存在が
地球を離れた人間の欲によるものであると捉えるならば
色彩は人工的で無機質なものと映るであろう。
しかし、見上げた空にアスランは思う。
――人は、地球を欲しているのではないだろうか・・・。
だから、一時として同じ色彩を現すことの無い空を
再現しようと英知を注ぎ込んだのではないかと。
大地から離れ、
地球の重力から切り離されても、
――地球の引力は
人を引き付け続けているのではないだろうか・・・。
そこまで思考を辿りながら無意識に漏れた溜息に、
アスランは苦笑した。
それは、オーブの常夏の空が恋しくなった現れであった。
自らの故郷を規定するものとは、
戸籍でも出生でもないとわかったアスランは
ふと、オーブを故郷とするシンに思いを馳せた。
――シンは、この空を見て
何を思うのだろう・・・。
――息が詰まる・・・。
シンは屋上に寝転び、ただ空を見ていた。
見上げた空があまりに蒼くて、
ただそれだけで涙が出たことが何度かあった。
蒼は何処までも続いているはずなのに
瞳に触れるように迫る空の中に、
自分だけが存在するような感覚。
寂しさの無い、ひとり。
常夏の暖かな色彩の空が、
いつでも優しく包み込んでくれたから。
あの懐かしい空色が、
ここには存在しない。
一時として同じ色彩が空を染めることなど無いと知っていても、
――オーブの空はいつも、
オーブの空だった。
そして、両腕を頭の下で組んで見上げた空は
深紅の瞳に収まりきらないほど広がっているのに、
常に同じ色彩を発するその空は、
窮屈でたまらなかった。
――箱庭・・・か。
シンがまだオーブで暮らしていた幼き日に耳にした何気ない言葉が
思いがけず甦った。
『プラントなんて、箱庭じゃん。
俺は、地球で良かったって思うぜ。』
そう言ったのは一体誰であったのか、
何時耳にしたのか 思い出すことが出来ず、
現在省エネモードのシンはそうする思考の体力も持ち合わせていなかった。
それでも、言葉を思いがけず呼び起こしたのは自分であり、
さらにはその言葉を記憶の糸に留めたのは自分だ。
つまり、それはシンが何処かで
プラントを“箱庭”と揶揄することに
何らかの感情を示していた事実を表している。
その感情とは恐らく、
共感だった。
「シーンーっ!!」
目を覚ますような良く通るその声がする方向とは反対へ
シンは寝返りをうった。
「ちょっと、何時まで寝てるつもりなのっ!」
そう言ってルナはシンの耳を掴んで勢い良く引っ張り上げた。
焦って飛び起きたシンは耳たぶを押さえながら涙目でルナを睨んだ。
「ってーな、もうっ!!」
ルナはチロリと舌を出すと、悪戯っぽく微笑んだ。
それが空元気であることをシンは痛いほど知っているから、
だからルナの前では普通でいようと決めていた。
ルナが元気でありたいと望むなら、
2人の“いつも”を具現化していたいと
シンは望んだのだ。
そして、 自分の空元気にシンが付き合ってくれていることが分からないルナではなかった。
だからこそルナは、空元気であっても元気であり続けたいと望んだ。
――それでも、元気は元気でしょっ!
シンは、その気丈なルナの選択とその強さに惹かれると共に
励ましの言葉ひとつ思いつかない自分への憤りも感じていた。
――今の俺にできることは、“普通”であることくらいだから・・・。
それをシンは後ろ向きに捉えていたが、
そんなシンを見詰めるルナの瞳はいつも柔らかく
何処か切なく潤んでいた。
「メイリン、ぐっすり眠ってたか?」
シンは階下で眠るルナの妹の名を呼ぶのを、正直躊躇っていた。
だが、それをルナが嫌うことは性格上分かっていたことであるから
いつもこうして自分から投げかけていた。
「うん。今日は、寝言言ってなかった・・・。」
ルナは引きつった笑いを浮かべていたが、
一生懸命笑顔を見せようとする健気さがシンの胸をさした。
「そっか・・・。」
そう応えたシンは黙ってルナの華奢な手を握った。
ルナの滑らかな白い手に残るのは、ざわりとした瘡蓋の感触だった。
メイリンに付けられた傷は、その手だけではない。
腕の傷は袖に隠され、 腹部や足には痣によっていくつも青く染まっていた。
それ以上にルナを傷つけたのは、
メイリンの切りつけるような言葉だった。
メイリンの言葉はルナの胸に深く突き刺さり、
時を刻むごとに増えていく胸の傷からは
可視化されない血が滲み、
滴り、
確実にルナを追い詰めていった。
ルナとメイリンのやり取りを粒さに見守ってきたドクター・シェフェルの判断により
ルナの精神と肉体双方の安全を確保するため
ルナの面会はメイリンの睡眠中のみに限定されてた。
その宣告されも、ルナを追い詰める要因となりかけた。
『私じゃ、駄目ってことですか・・・。』
俯いたルナの表情は深紅の髪に隠されていたが、
形の良い唇は噛まれ
ぎゅっとスカートの裾ごと握り締めた拳は震えていた。
ドクター・シェフェルの対処が他者からは行き過ぎを映る程慎重となったのは、
ドクター・コールマンの死が無関係ではなかった。
当時現場に居合わせた当事者だけではなく、
その介助者に死者が出たことで
ドクター・シェフェルはさらなる犠牲者の出現の蓋然性を危惧したのだ。
故に、ルナとメイリンの部分的分離はドクター・シェフェルにとっては妥当な判断だといえよう。
しかし、それが当人に何処まで伝わるのかと言えば、
それはルナの反応を見れば一目瞭然であった。
ドクター・シェフェルの決定は、 ルナにとってみれば
自らの役不足の宣告そのものであったのだから。
ドクター・シェフェルはルナを悼むように、
至極ゆっくりとした口調で諭した。
『メイリンがルナに危害を加えるのは何故だと思う?』
その問いの意味を求めて、
ルナはゆるゆると視線を上げた。
『気持ちが、不安定、だから・・・。』
本当のメイリンはこんなことをする子じゃないのだと、
ルナの言葉に含意された思いを受け止めるように
ドクターはゆったりと頷くと優しく目元を緩めた。
『そうだな。
でも、他にも理由があるんだよ。』
その意外な言葉にルナは素直に小首をかしげ、
答えを求めるようにドクターを見詰めた。
『気づいていたかい?
メイリンは、私には何もしないんだよ。
危害を加えるのは、
今はルナだけだ。』
その言葉に、ルナは震える指先を唇に引き寄せた。
触れた唇は噛んでいたせいか熱を持ち、
鏡を見なくとも赤くはれ上がっていると分かる。
『その意味が、わかるかい?』
ドクターの言葉は蕩けるように優しくルナの胸に染み入り、
『私は思うんだよ、
きっとメイリンは心を開こうとしているんだって。』
人肌のように心地よく温かな言葉が胸を満たし
『ルナが言う通り、
メイリンは今不安定で、
きっとそれが上手くいかないんじゃないかな。』
内側から暖めていく。
『ルナは、シンと喧嘩して、
ついつい心にも無いことを言ってしまったことはあるかい?』
突然振られた自らの恋人の話題に、
さっと頬を染めたルナは小さく頷いた。
ドクターは少女らしい仕草に、より笑みを深めると言葉を続けた。
『その時、シンは傷ついた顔、しただろう?』
ルナは眉尻を下げて瞳を閉じ、
その時のシンの表情を瞼に描いて頷いた。
『でも、その時、
ルナも傷ついたんじゃないかな?』
ドクターの言葉に、ぱっと瞳を見開いて2・3度瞬きをしながら
脳裏に浮かんだのは蜃気楼のように歪んだ視界。
――あぁ、あの時、私、
泣いちゃったんだっけ・・・。
ルナが記憶の糸を手繰り寄せる様子を見守りながら、
ドクターは続けた。
『人を傷つけた時、自分も傷つくものなんだよ、
人は。』
そう言って、ドクターはルナの肩に手を置き自愛に満ちた微笑を浮かべた。
『優しければ、優しい程。』
その言葉に込められた意味を、聡明なルナは瞬時に読み取って、
暖かさで満たされた胸が急に熱を持ち
それが瞳に立ち昇っていくのを感じた。
あたたかな涙を頬に落としながら、ルナはドクターを仰ぎ見た。
『メイリンも、傷ついてるから・・・。
だから、メイリンを守るために・・・?』
涙で途切れる言葉を懸命に繋ぎとめながら問うルナに、
ドクターはゆっくりと頷いて見せた。
以来、ルナが目にするメイリンは常に眠り続けている。
雪のように冷たく白い肌は、まるで御伽噺の眠り姫のようだった。
「そういえば、アンリが言ってたっけ。
メイリンが眠り姫みたいだって。」
メイリンと部分的な分離を受諾してから
ルナが元の快活さを取り戻しつつあったことは紛れも無い事実であった。
ルナはその皮肉な事実を自嘲的に捉えるのではなく、
メイリンのために注ぐ力へと変えようとしていた。
――今はまだ、私に何ができるのかわからないけど。
それでも、私は元気でいたいからっ。
シンは欠伸を噛み締め、くしゃりとした表情でルナの言葉を受けた。
「あぁ、王子?」
シンの不細工に歪んだ表情にルナは笑いを噛み締め、
頷いた。
「そうそう、王子、王子っ。
ぴったりなあだ名よね。」
そう言って今度はルナが大の字になって寝転がり、
青空にその身を預けるように瞳を閉じた。
瞳を閉じても感じる、陽の光と同じ波長の人工的な光の眩しさに
思わず掌を目元に当てた。
夢にまどろむ意識の中でルナは呟くように、
シンに告げた。
「今度さ、長期休暇ぜーんぶ使って
オーブへ行きたいわ、私。」
シンは驚きに目を瞠ったが、
その感情を反射的に隠して口をつぐんだ。
それを見ていなくても見越していたかのようにルナは口元に笑みを浮かべると、
シンの手を手繰り寄せ、
きゅっと強く握った。
「ね、一緒に行こうよ。」
バサリ。
ルナの声に返ってきたのは布が擦れる音と、
シンの香り。
瞼にのせていた掌を取ると、
隣にシンが寝転がり
黙って空を見上げていた。
ふっと瞳を細めて、
ルナもシンに続くように空を見上げた。
2羽の鳥が追いかけ追い越し、
囀りの旋律を奏でながら羽ばたいてく。
その先にはぽっかりと浮かんだ白い雲が、
ゆっくりと流れていった。
何処までも続いていきそうな、
その先に何の遮るものも無く宇宙があると思わせる
蒼い空。
――でも・・・。
ルナはちらりと視線をシンへ向ける。
瞳を閉じたシンは規則的な呼吸を繰り返しているところから
転寝しているのかもしれない。
――きっと、シンには違って見えるのかもね・・・。
この空が。
ルナの視線に気づいてかそうでないのか、
突然シンは独り言を呟くように告げた。
その言葉を聞き取れたのは手を繋いでいたルナと、
2人を包み込む箱庭の空だけだった。
「気が・・・向いたら。」
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