3-35 2人の不幸
メイリンの脳裏に、研究室での惨劇がアクチュアリティを伴って甦る。
作業中の画面に突然流入してきた情報――。
その拠出を割り出すという思考も浮かばなかった。
無防備にさらけ出した自己に降り注いだ、
暴力とも呼べる事実。
それを受け止めることも、
拒絶することも出来ず、
ただ身体は硬直したまま目だけが情報を飲み込んでいった。
程なくして、ダニエルが音も無く立ち上がると
懐から銃を取り出し米神に宛がったのが視界の端に映った。
その意味を解することができたのは、
返り血が頬を掠めた瞬間。
その生暖かさが、
計り知れない加速度を伴ってメイリンに事実を伝えた。
ダニエルが、自ら命を絶ったのだと。
発狂したように叫び声を挙げたが、
その行為をどこか遠くから客観視しているような、
感覚は浮遊感に満ちていたのに、
強烈なアクチュアリティがダニエルに付けられた頬の朱から広がっていった。
カチャリ。
聞き慣れた、
密やかで鈍い音がして、
重力で地べたにへばりつきそうな視線を音源に向ければ、
そこには自分に銃口を向けるクォンがいた。
『救ってやるよ・・・。』
クォンの声も、
表情も、
穏やかで、
優しくて。
行為からかけ離れたそれは、
狂気以外の何物でも無かった。
だが確かに、
そこには優しさがあった。
蕩けるように甘い香に誘われるように、
自己が救いと名乗るものに傾いていたのに。
優しさに、
包まれてしまいたいと、
意識を手放そうとしていた、
そのはずなのに。
――それすらも、出来なかった・・・。
メイリンは開ききった瞳孔でクォンを捉え、
錆付いたように動かない首を無理やりにでも動かし、
拒絶した。
何故――?
理性と思考はとうに振り切れていた。
本能はむしろクォンが授けようとした鉛の救いに傾いていた。
尊厳の保持と絶望に拠る死を選択することも、
絶望に抗い未来へ志向する生を選択することも、
出来なかった。
その自分が、
何故あの時、
首を左右に振ることが出来たのか・・・。
その理由が、今、わかった。
メイリンは肺が潰れる程の声で、
アンリに叫びをぶつけた。
「入って来ないでっ!!!」
身体中を上下に揺らし、欠乏した酸素を吸い上げる。
「・・・来ないで・・・。」
メイリンは拒絶したのだ。
あの時のクォンも、
今、目の前のアンリも。
知らされた事実も、
今の自分も、
過去の自分も。
コーディネーターである、自分を。
自己を拒絶することは、
自己と接触しようとする他者をも拒絶することと同意となる。
何故ならば、他者が接触しようとする対象とは自己であり、
接触を知覚するのは自己であるから。
他者の接触は自己の存在を意識化させる。
今、眼前のアンリの行為は、
メイリンにとってメイリンをメイリンたらしめる脅迫だった。
それを、アンリは知らない。
だが、それだけではないことをメイリンは知らない。
メイリンの涙は、
恐怖や嫌悪以外の感情が混じった
あたたかさを帯びていたことを。
「あなたが、そこにいるからっ!!
私に、触れるからっ!!」
他者を拒絶するのであれば、
自己を閉じれば良い。
それなのに、
メイリンは、アンリを傷つけていく。
「あなたが、
私を汚しているのっ!!
ナチュラルなんかいるからっ・・・!!」
傷つける言葉を投げかけ、
物理的攻撃を加えることとは、
本人が意志を持って他者と交わる行為に他ならない。
その証拠に、
メイリンの心はアンリを傷つける度に傷ついていく。
「消えてよっ!!
世界から・・・消えて・・・。」
メイリンとアンリは知らない。
その行為が、
拒絶とは対極にあるものであることを。
本能的な救済の希求を意味していることを。
そして、
再生への胎動であることを。
その不知こそが、
2人の不幸だった。