3-33 こっちへ
「今日は、ラクス様はお休みなのかな。」
メイリンの前髪を撫でるアンリの眼差しは至極やわらかく、
しかし何処か寂しげだった。
コル爺やヴィーノに無理やり連れ出されることを除いて、
アンリは時間の許す限りメイリンのそばについていた。
コル爺がアスランから預かったという報告書の作成チームへの参加を実直なアンリは申し出たが、
コル爺とヴィーノの徹底的な反対によって退けられた。
『王子は姫の傍にいなくちゃなっ!!』
と、ヴィーノの陽気な笑顔に半ば強引に背中を押されて、
アンリは今もこうしてメイリンの枕元にいる。
ラクスの歌声は日に何度も響き渡り、
冷たく硬直した艦内に潤いをもたらしていた。
その響きは、鳥のさえずりが春風に乗って窓辺から流れ込むように
メイリンの眠る医務室にはラクスの旋律が運ばれてきた。
いくらアンリに声を掛けてられても、
触れられても、
反応を見せないメイリンが、
ラクスの歌声が響くそのわずかな間だけ微かに顔色がよくなることを知っていたのは、
ずっと隣でメイリンに面差しを向けていたアンリだけだった。
ラクスの歌声が無いだけで、
無機質な室内の温度が下がったように感じられ、
壁やシーツの白さが寒々しく視覚を刺激した。
アンリはぬくもりを失ったメイリンの掌をあたためるように包み込んだ。
――あの時・・・。
アンリは、メイリンと交わした握手を思い起こす。
あの時、メンデルの無数の研究室を繋ぐ廊下は長く、冷たかった。
『よろしくね、アンリ。』
それでも、あの時差し出されたメイリンの右手はあたたかくて。
『よろしく、メイリン。』
ぎゅっと握り返したら壊れてしまうんじゃなかって思う程、
やわらかくて。
それが嘘だったように、
今アンリの掌の中にあるのは熱を失い
硬くなったメイリンの掌だった。
――メイリン・・・。
アンリはメイリンの掌を包んだ両手に自らの額を押し当てた。
そこに、あの時のぬくもりが再び戻ることを祈って。
――風・・・?
アンリは室内を風が吹き抜けたような感覚に、顔を上げた。
瞳を刺すように迫る白さが柔らかく溶け、
色彩さえ帯びていくようだった。
そして、身体が粟立つことで漸くアンリは認識した。
ラクスの歌が響いているのだと。
その歌声は今までのそれとは比較にならない程、
心に迫り震わせ、
自ずと涙が溢れてくる。
キラの心に口付け、
紡ぎ続けられる願いという言の葉にのったラクスの思いが、
波紋のように広がり
彼岸である他者に届いていく。
アンリは感性で受け取ったラクスの風を吸い込むように胸に孕むと、
穏やかに目を細めてメイリンに呼びかけた。
「メイリン、聴こえる?
君の好きな、ラクス様の歌が・・・。」
アンリの呼び声と同時に、
メイリンはゆったりとした動作で上半身を起こした。
待ち望んで止まなかった眠り姫の目覚めに、
アンリは絶句した。
アンリの声は確かにメイリンの聴覚を刺激していたはずであるが、
それは認識されていないことは明白であった。
メイリンの瞳は絶望の闇に覆われ、
何も映し出していない。
その瞳を、アンリは知っている。
嫌というほど。
記憶の中の瞳と眼前の瞳が重なりあっていく、
その映像と思考を振り切るように、アンリはメイリンの肩を強く揺すった。
「メイリンっ!!」
反射的にメイリンの名を呼んだ。
目に見えぬ、だが確かにそこにあって、
今は果て無き闇の内にある、
メイリンという存在に向かって手を伸ばすように。
――そっちは、駄目だっ。
「メイリンっ!!」
――こっちへっ!!
メイリンの柔らかな撫肩に爪が食い込むのも厭わずに
アンリは力を込めて肩を揺すった。
「メイ・・・」
機械的に首を捻りアンリに顔を向けたメイリンの表情に
アンリの呼びかけは途中で支え、
全身が一気に弛緩する。
表情が抜け落ちた蒼白のメイリンの頬を伝う一粒の涙が、
生々しく迫る。
数日前まで薔薇色が刺した唇は薄紫に染まり力なく開いた、
その唇は今にも絶望を形作る――。
そんな予感に駆られたアンリは衝動的にメイリンの唇を塞いだ。
あまりの柔らかさと、不釣合いな程の冷たさに
アンリは一瞬目を見開いたが、
ぐっと瞼を閉じて祈るようにメイリンの肩を抱き身体を引き寄せた。
――こっちへ・・・、
こっちへ来てっ。
その祈りも、
思いをのせた行為も、
メイリンに届くことは無かった。