3-23 闇に触れる
アスランはPCを起動させ、メモリーであるマリンスノーを接続した。
「これは・・・?」
「まだ製作途中だが、提出用の報告書だ。
表向き・・・とは言え、イザーク達やラクス以外の閲覧は想定していない。」
それはオーブへの提出の保留を含意した言葉だと、
ラクスはゆっくり瞬きをしながら読み取った。
「先ずはこちらに目を通してほしい。
メンデルで推し進められていた計画やその実験の概要がまとめてある。」ラ
クスは頷くと報告書に向き合った。
室内を沈黙が支配する。
ラクスは表情も呼吸も乱さずに目を通していく。
その様子にアスランは2つの安堵を覚えた。
第一に、ラクスはメンデルの事実を受け止め真実を見つけ出すことができるひとであるとの確信を再び得た点。
第二に、表向きの報告書の内容である。
ラクスは報告書に目を通しながら違和感を感じていた。
確かにそこには衝撃的な事実が羅列されていたが、
これを目にしただけではこの4人の犠牲者を出す事故には発展しえない。
何故ならば、その報告書にはリアリティの羅列はあっても
そこに人間の感情や事態のアクチュアリティが完全に欠如していたからである。
まるで、実験結果の数値のみを無数に提示されたかのように、
そこにその意味も及ぼす影響についても理解の域に進入してこない、
事実だけをさらったような報告書。
しかし、これがアスランの配慮の結果であった。
表向きの報告書とは第一段階の報告書であり、
あくまでそれはその先で提示する第二段階の報告書、
つまりメンデルのありのままの事実を受け入れるための布石であった。
メンデルの事実に無防備で晒すことによる、さらなる犠牲者の出現という蓋然性への予防措置。
いくらラクスに揺ぎ無い信念があろうと、
イザークやディアッカに揺ぎ無い誇りがあろうと、
それでもこのファイルは・・・。
『そのファイルは人を殺す。
内側から壊す。
プラントを砕く、
粉々に。
細胞1つ残らぬ程に。』
クォンの言葉がアスランの脳裏に反芻する。
そしてさらなる仮説をアスランは抱いていた。
このファイルは世界を砕く、と。
だからこそ慎重に対処すべきであり、
ならば表向きの報告書という予防措置はあまりに簡易的であったが、
期日を考慮すれば限界であったことも確かだった。
「アスラン、メンデルで行われていた事実は把握いたしました。」
そのアスランの意図をラクスは汲み取っていた。
アスランはラクスの表情に気を配りながら、小さく頷いた。
「気分が悪くなったり、めまいや頭痛などは?」
「大丈夫ですわ。」
ラクスは常と変わり無い微笑みを浮かべながら、報告書が映し出された画面に細い指を滑らせた。
「表向きの報告書とおっしゃいましたが、
やはりこれでも表に出すわけにはまいりませんわ。」
アスランは苦笑とともに小さな溜息をついて、
新たにマリンスノーを取り出し接続した。
「だろうな。
誰が秘匿したのかはわからないが、その理由ならわかる気がする。」
――俺だってそうする・・・そうせざるを得ないだろう。
アスランはメモリーからデータを引き出し次々にパスを解除していく。
そして、操作の手を留めるとラクスに向き合った。
「ラクス。」
穏やかなアスランの声色が硬質に変化し、
緊張の高まりがキラの闇の存在の接近を示していた。
腕を伸ばせは触れることが出来る距離に、
それはある。
誰にも触れられる事無く、
だが確かに息づいていた、
闇。
「心配には及びません。
わたくしがわたくしであるということが
今最も大切なことだと、
そう思いますから。」
それはラクスの恒久の真実であり、
ラクスの強さの源だった。
それを熟知するアスランは微かに微笑みを浮かべると、
最後のパスを解除した。
ラクスは諸手を胸に当てゆっくりと瞳を閉じた。
深呼吸をし、
耳を澄ますと自らの鼓動が聞こえる。
それは生命が奏でる旋律。
そこにキラの鼓動が重なったなら・・・。
ラクスは覚悟と共に、ゆっくりと瞼を開け、
メンデルの事実と対峙した。
再び、室内を沈黙が支配してどれくらいの時が経っただろう。
先程の沈黙とは比にならない程の重力が付加された空気は深海のように静寂を保っていた。
研究室から持ち帰った事実の断片を繋ぎ合わせた報告書の文字が、
一語一語ラクスの空色の瞳を滑ってゆく。
――そろそろ、か・・・。
キラが目にしたであろうメンデルの真実の核心部に近づくにつれ、
アスランはラクスの表情の機微を見逃さないように注意を払った。
その時、ラクスの陶器のような頬を一筋の涙が伝う。
なめらかな曲線を描く輪郭の淵を雫が滴るその前に、
もう一筋の涙が頬を伝う。
堪えられる事も絶えること無く、
次々とラクスの頬を濡らしていく。
キラの前以外で見せることのないラクスの涙の意味を知らないアスランではない。
アスランは躊躇する事無く表示されていた画面を閉じた。
それに瞬きもせず反応を示さないラクスの掌は微かに震えていた。
ラクスの手を取ると、
キラと同じようにひとのぬくもりが欠落していた。
アスランはラクスの意識を確認するように、
その名を呼んだ。
「ラクス。」
俄かに力を込められて初めて、
ラクスはアスランが掌に触れているのだと知覚した。止
め処無い涙で瞳を濡らしながらアスランへ顔を向けた。
蜃気楼のように歪んで映る眼前のアスランに、
先の映像の残像が重なる。
――メンデル確かに生きていた・・・、
あの方の名は・・・。
「ラクス。」
アスランの呼ぶ声にキラのそれが重なった錯覚を覚え、
ラクスの胸は痛みと共に熱くなった。
「はい。」
アスランはラクスの意識が正常であることを確かめると、
そのまま姿勢を下げ至極穏やかに言葉をかけた。
「少し休もう。ゆっくりでいいんだ。」
ラクスは桜色の唇をゆっくりと綻ばせ、
清らかに微笑んだ。
決して負に侵食されない、
それは強さを伴った清らかさ。
「続けてください。」
アスランは悲痛に表情を歪ませ視線を外した。
「しかし・・・。」
――無理をさせては・・・。
ラクスを失うことになる・・・。
ラクスはアスランの手をやんわりと外すと、
何も映し出されていない画面に凛とした眼差しを向けた。
その視線の先にラクスが見るものとは、
メンデルの真実であり、
キラの真実。
そこから瞳を逸らさない、
揺ぎ無い信念をラクスは抱いていた。
「キラの全てを、受け止めます。」