3-21 最後の愛しさ
オルゴールの蓋がゆっくりと閉じるように
ラクスの旋律が結ばれた。
余韻に耳を澄まし深呼吸をする様は神聖ささえ感じさせる。
ラクスは呼吸を整え瞳を開き、
キラの掌をあたためるように包み込んだ。
ラクスの微笑みという朝日に呼応するように、
その時キラは力なく微かに瞳を開いた。
「おはようございます、キラ。」
それはラクスとキラが出会ってから何度も何度も繰り返されてきた言葉だった。
朝を迎えることが出来たという生きる喜びと、
それを祝福してくれる他者の存在という奇跡を感じさせる言葉。
しかし、今キラの耳に響くその言葉の持つ意味は、
時刻を知らせる時計塔の鐘の音と変わらない。
生きることも、
他者の存在も、
自己を自己たらしめる証なのだから。
ラクスはタオルを浸した湯にアロマオイルを数滴垂らし、
それを絞ると医務室にふんわりとバラの香が広がった。
その香はクライン低の花園の香だった。
「さ、お顔を洗ってすっきりいたしましょう。」
蒸しタオルの温度を自らの頬で確かめると、キラの頬へそれを宛がった。
反射的にキラはうっすらと開けていた瞼を再び閉じる。
キラの頬があたたかさ感じ取り、
それが波紋のように全身に広がってゆく。
と、ラクスは瞳を見開き左手から蒸しタオルが滑り落ちた。
キラがラクスの傷ついた手に触れたからである。
再会して初めて見せる、
キラがラクスを求める行為。
それは自己を否定し続けたキラが見せた、
キラのキラとしての行為であった。
――キラが帰ってきてくださった。
羽が掠めるように触れるキラの指先から熱が伝わり、
ラクスは歓喜に満ちた微笑を浮かべた。
キラの指にゆっくりと自らの指を絡め、
魂に触れるようにキラの頬に触れた。
「キラ。」
青紫がかったキラの薄い瞼が力なく開き双眸が揺れる。
闇の中に浮かび上がった蜘蛛の糸を手繰り寄せるように、
キラはラクスへ視線を流し瞳をこらした。
「・・・ラクス・・・。」
消え入りそうな程掠れた声には、メンデルへ出立したあの時と同じ、
ラクスへの愛しさが確かに込められていた。
「はい。ここにおります。」
キラに顔を寄せるラクスの声は微かに震え、
瞳には涙を湛えていた。
その涙は、やわらかな春の日差しを受けた湖のようにまばゆかった。
キラは、数日で不自然な程こけた頬でぎこちなく微笑みを作ろうとする。
ラクスは頷き、キラの気持ちを引き受け大輪の笑みを浮かべる。
キラの指先から生まれた
2人が求めて止まなかった穏やかな時間。
しかしそれは、キラに残された最後の愛しさの欠片だった。
キラは絡めたラクスの左手に指輪の手ごたえを感じると、
吹いたら消えそうな程儚い眼光を揺らめかせ、
目元を緩めた。
それはキラの最後の告白だった。
――ごめんね、ラクス・・・。
キラの感情の機微を敏感に感じ取ったラクスが眉をひそめるその寸前に、
ラクスは左手の薬指に痛みが走ったのを知覚した。
いつの間にか解かれたキラの右手とラクスの左手に視線を移し、
初めてラクスは気が付いた。
キラがラクスの薬指から指輪を引き抜いたのだと。
そしてそれはキラがキラとして示す意思表示であると。
ラクスは唇でキラの名を形作る、
それを遮るようにキラが言葉を落とす。
「僕はこの世界に生まれてきたら、
いけなかったんだ・・・。」
キラの瞳は光の届かぬ果て無き闇のような紫黒に染まっていた。
数秒前に揺らめいた眼光は消え去っていた。
『生そのものが悪の象徴だと、
何故気が付かなかった。』
クォンの言葉は自己に向けられた言葉として、
キラの胸に楔のように突き刺さっていた。
「知らないことも、
知ろうとしないことも、
罪なんだ。」
それは、
行為としての罪。
「知っても知らなくても、
僕は、
僕自身が罪なんだ。」
それは、
存在としての罪。
紫に変色した唇は痙攣したように震え、
蒼白な表情に体温は感じられない。
ラクスは無私にキラの全てを受け止めるような微笑を浮かべた。
「今のキラが、全てですわ。」
あの時と同じ、
永久の真実を口にして。
首をもたげたキラの表情は前髪で隠されていたが、
その奥から凍てついた嘲笑が漏れてた。
「僕は・・・。
今の僕が全てなんだって、
それが、
真実なんだって・・・。
それを教えてくれたのは、
ラクスで。」
言葉を紡ぐ程にキラの身体は硬直し、
指先がちりちりと震えだす。
「そう感じさせてくれたのは、
カガリで、
アスランで・・・。」
キラの頬を氷の涙が伝う。
その涙をぬぐおうとラクスの白魚のような手が近づき、
キラはその体温に慄き反射的に叩き落とした。
乾いた音が医務室の空気を劈く。
「でも・・・っ!!」
その真実とはキラがキラとして生きることの肯定である。
しかしその真実とは、
キラと名付けられた個体の存在そのものの実存の肯定という前提の上に成り立っている。
「でも、違うんだ・・・っ!!」
キラと名づけられた生命体の創造によって、
信じた永久の真実の前提は泡沫のように崩れ去った。
「キラっ。」
ラクスの光の矢のような声は、
音も無くキラの闇に吸い込まれる。
「この身体がっ・・・、
この中に・・・、
僕の中にあるんだ・・・。」
果て無き欲望の具現が、
繰り返される憎しみと悲しみの源が、
戦火の淵源が、
キラの全細胞の遺伝子に記されている。
「ここにっ!」
キラは硬く握った拳で心臓を叩く。
その痛みも、
痛みの先で打ち続ける鼓動も、
肩を揺らす呼吸も、
不自然な程噴出した汗も、
視界に掛かるこの髪も、
震える唇も掌も、
生きる中で当然の機能として無意識下に営まれている全てが
細胞の遺伝子レベルで意識化されていく。
それがキラに生を突きつける。
キラはラクスから奪った指輪と自身の指輪を、
誓った永久の愛を一気に握りつぶし、
床に落とすと渾身の力でそれを踏みつけた。
じわじわと床を深紅が染めていく。
他者を愛することとは
自己を愛することであると、
教えてくれたのはラクスだった。
だからキラはキラとして再び生きることを選ぶことができた。
自己の存在の尊さと
他者の存在の尊さを、
教えてくれたのはラクスだった。
だからキラはキラとして、
他者と共にいることを願うことができた。
だからキラは迷い無く剣を取り、
未来を拓くために戦うことができた。
自己の存在と存続を否定することは、
キラの中のラクスの否定である。
何故なら、ラクスを愛することが生きる意味を示すから。
キラとしての自己の存在を照らす、
光なのだから。
キラがラクスの髪を結い上げているリボンを抜き取り、
同時にラクスの桜色の髪が舞い花の香がキラの嗅覚を刺激した。
キラの止まぬ拒絶を受けてもなお、
その行為すら愛しむラクスの存在が、
自己の存在と生成の絶望をキラに突きつける。
だからキラはラクスの首にリボンを掛けた。
絶望の闇を映した紫黒の瞳から最後の涙が零れ落ち、
色彩も表情も抜け落ちた貌に涙の跡を一筋残す。
腕に力を入れれば一瞬で、
キラを脅かす絶対的な他者の排除が完遂する。
「キラ。」
それでもなおラクスは負に浸食されること無く、
澄み切った声で呼びかける。
キラの中で、本能的に救いを求める衝動と
それを破壊する欲動が嵐のようにせめぎ合う。
ラクスは微笑みを絶やさずに、
自身の首に巻きつけられたリボンを握り締めるキラの掌に触れた。
それが引き金となりキラの中で押さえきれぬ感情が決壊した。
壊れたように表情を歪ませ、
キラが堪えるものを吐き出す代わりに荒々しく呼吸をし、
掌に爪を突き刺すことで腕の動きを制するようにリボンを握る拳に力を込めた。
「ダメ・・・だっ・・・!
い・・・嫌だ・・・っ!!」
実体化した絶望という名の闇に自己が飲み込まれるその瞬間に、
キラは親友の名を叫んだ。
親友に最愛の人の救済を求めた。
それはキラの最後の優しさだった。
駆けつけたアスランによってラクスはキラから引き離された。
ラクスはアスランの腕を懸命に払い退けながら、
「キラぁぁぁっ!!」
繋ぎとめるようにキラに手を伸ばした。
ラクスの声はキラに届くことは無く、
キラはその手を取ることは無かった。
その時、ラクスの瞳からキラと同じ氷の涙が零れ落ちた。
愛しさの欠片が散っていく。
儚げな微笑を残して、
キラはラクスの前においてキラとして生きることを放棄した。
2人の永久の絆を分かつように、
医務室の扉が閉じた。