3-20 眠り姫
ラクスの薄桃色の旋律は春風のように響き渡る。
あれからプラントの標準時に換算して2度目の夜が明けた。
キラの枕元から響くラクスの祈りは、
これで何度目であろうか。
薄桃色の旋律が、
白く冷たい医務室に人肌のようにあたたかな彩りを加え
沈鬱とした2隻の艦に癒しをもたらした。
しかし、その祈りの数だけラクスの躯に傷痕が刻まれていった。
その事実は秘書官さえも知らず
アスランに予感されるのみであり、
増え続ける傷痕を衣の下に潜め、痛みさえも愛しみ、
ラクスは歌い続ける。
願いは、
思いは、
あなたに届くと信じて。
ラクスの歌声はドクター・シェフェルのはからいで今日も通信を介してメイリンの眠る医務室に届いた。
「メイリン、聴こえる?
君の好きな、ラクス様の歌だよ。」
アンリはいつくしみに満ちた手つきでメイリンの前髪をなでた。
「眠り姫って、こんな感じだったのかな。」
アンリの口から心の声が洩れて、無機質な医務室の空気に溶ける。
メイリンの行動は常軌を逸していたが、
それでも何かに抗うような生命性を感じさせた。
しかし今ここに横たわるメイリンは浅く数の少ない呼吸のために豊かな胸が微かに上下する以外微動だにしない。
アンリが握り締める指先さえも、
その反応は帰ってこない。
一瞬ばら色がさしたかに思われたメイリンの頬は、
今は陶磁器のように白く冷たい。
「な〜んか、眠り姫みたいだなぁ。」
アンリはその声と共に肩を軽くタップされて初めて後ろを振り向いた。
「よっ!。」
片手を挙げてヴィーノが人懐っこい笑顔を向け
その後ろではコル爺がニッカリと笑っていたのを見て
アンリはふっと表情が緩む。
そう、これが先日までの日常だったのだ。
「メイリンが姫なら、アンリが王子かの?」
はて、とコル爺が小さなお髭をいじるとすかさずヴィーノは手を挙げる。
「それなら、俺も王子に立候補っ!」
コル爺はつぶらな瞳を真一文字になる程あからさまに目を細めて、
ヴィーノとアンリを凝視した。
それまでの無機質な病室におかしな緊張感が走る。
「フガっ!!」
コル爺はアンリの手を掴むと高らかに上げた。
「ちぇ〜、王子はアンリかよ〜。」
ヴィーノは口を尖らせながらがっくりと肩を落とした。
アンリは眼前で繰り広げられるコントのようなやり取りに、すっかり巻き込まれていく。
「あんまり根詰めておると、メイリンに嫌われるぞいっ。
」わかってないなぁ、そう言わんばかりに
ヴィーノとコル爺はあからさまに肩を竦めて頭を左右に振った。
「2人がそんなに女性経験豊富だとは思えないけどなぁ。」
アンリは悪戯っぽくヴィーノとコル爺に視線を向けて、小さく笑った。
頭を掻いてへらっと笑うヴィーノとは対照的に、コル爺は憤然と一言。
「わしゃ、百戦錬磨じゃ。」
「え〜!!!!!!!!」
コル爺はヴィーノとアンリの肩をぐいっと引き寄せると、あえて声のトーンを落とした。
「ふっ。
女性の扱いの“秘訣”を聞きたいか?少年たちよ。」
コル爺の百戦錬磨伝説そのものを未だに飲み込めずにいるヴィーノとアンリは顔を見合わせ、
――これって、頷いとくところだよな・・・。
と暗黙の意思疎通をすると、たどたどしく了承の頷きを返した。
「よし、じゃぁ食堂でゆっくりと説いてやるわいっ!」
と、コル爺はヴィーノとアンリの肩を掴んだまま強引に扉へ向かう。
と、アンリは焦ったように声をあげた。
「メイリンっ!すぐ戻るからっ!!」
自らの肩越しから声を掛けたアンリは気が付かなかった。
眠り姫の瞼にうっすらと浮かんだ涙に。
「んっ。」
――美味しい・・・。
アンリはフォークを口に含んだまま瞬きを繰り返した。
コル爺はがつがつとトレーに乗った料理を口に運びながら
アンリに苦味が混じったような笑顔を向けた。
「うまいじゃろ。」
はっと顔を上げたアンリの正面には、
コル爺のくしゃくしゃの笑顔とヴィーノの照れ笑いがあった。
「はいっ。
美味しいです、凄く。」
アンリは努めて快活に答えた。
じわじわと熱くなる胸の奥の熱が瞳に立ち上り視界が霞んでゆくのを飲み込むように、
フォークを口に運んだ。
こうして仲間と笑いあいながら食事をすること、
その当たり前の尊さをアンリは噛み締めた。
そして、それをメイリンと共に味わいたいと強く思う。
「う〜ん・・・。」
「めずらしいのぉ、ヴィーノが考え事をするなんてな。」
首が直角に曲がるほど頭を捻っていたヴィーノは、
組んでいた腕を解くとぶんぶん振りながら弁解した。
「そんなっ!俺だって考え事ぐらいしますって!!」
アンリは笑いを堪える様に口元を押さえてヴィーノに問うた。
「で、何考えてたんだ?」
いつも陽気なヴィーノの考え事に、アンリもコル爺も興味を引かれた。
「眠り姫って、何で王子のキスなんかで目が覚めたのかなぁって。」
――・・・。
しばしの沈黙の後に
爆笑が食堂に響いた。
ガタンっと席を立ち上がったヴィーノは、赤面しながらも大真面目に力説した。
「だって、おかしいじゃないっすか!
ずっと姫のこと大切にしてきた、
家族とか、
友達とか、
そういう人たちには応えないで、
いきなりやってきた見ず知らずの王子様にいきなりキスされて、
それに応えて目を覚ますなんてっ!
俺は変だなぁって、そう思うんだっ!」
爆笑していたアンリとコル爺は涙目を押さえ冗談半分に聞いていたが、
だんだんとヴィーノの話に引き込まれていった。
「確かに・・・。」
「そうじゃのぅ・・・。」
アンリとコル爺は腕を組んで唸ってしまう。
ヴィーノは、どうだ!とばかりにふーっと鼻から息を吐き出すと席に着いた。
しばし思考の沈黙が食堂を包む。
足をぶらぶらさせながらヴィーノがつぶやいた。
「やっぱ、愛かなぁ・・・。」
それにアンリとコル爺がおそらく全員が抱いていたであろう疑念を呈す。
「でも、家族だって王子になんか負けない位、愛していただろ?きっと。」
「そうじゃのぅ。友人たちも姫の目覚めを望んで止まなかったじゃろ・・・。」
「初めて会った姫と王子が、一番愛し合っていた・・・なんて、
そんなの判らないしなぁ。」
「だいたい、愛の大きさなんて比較できるのかの・・・。」
年の功といった発言に、アンリとヴィーノは小さく頷く。
「確かに・・・。」
再び、食堂に沈黙が訪れる。
「意思・・・だったりして。」
アンリの提示したキーワードに対してコル爺とヴィーノは瞬きした返せなかった。
「王子、どういうこと?」
身を乗り出したヴィーノを、
「王子って言うな。」
アンリが軽くかわすと、
「まぁまぁ。」
コル爺が場を和ませる。
「つまりさ、姫は目覚めさせられたんじゃなくて、
自らの意思で目覚めたんじゃないかって。」
良くわからないけど、とアンリは照れくさそうに頭を掻いた。
3人の男たちが御伽噺の謎について思考を廻らせるその姿は滑稽に映ったかもしれない。
だが、彼らは至極真剣であった。
その先に思うひとが実存するから。
彼女は今も、眠り続けているから。
そして、その目覚めを希求しているから。