3-18 ラクスの呼び声
ラクスはベットに横たわるキラの胸に頭を預けた。
ゆっくりと刻まれていく鼓動の音色に耳を傾け、
ラクスは瞳を閉じた。
――なんて尊い響きでしょう・・・。
そのリズムに合せて微かに震えるその胸はあたたかく、
心地よく、
それだけラクスの胸を刺す。
キラの胸に這わせた掌から伝わる、
このぬくもりに包まれていた日々が高く遠く感じられた。
「キラ。」
歌を口ずさむような呟きは、目がくらむほど白が迫る病室に淡い桃色を射した。
画面の向こう側でドクター・コールマンは眉をひそめた。
「ラクス様お一人を病室に残したのですか?」
ドクター・シェフェルは小さく肩をすくめて頷いた。
「ラクス様からのお申し出を無碍に断る訳にはまいりませんでしょう。
それに、ヤマト隊長の症状の原因は極度の精神的ダメージを被られたことにある点は明白です。
それならば、今の彼に最も必要なものとは、
ラクス様も彼自身もおわかりのはずですよ。」
コールマンは表情を固くしたまま頷く。
「それは確かなことです・・・。
メイリンにはアンリが付き添っていますが、
出来ることなら肉親であるルナマリも同船していればと思います。
ですが・・・。」
言葉を濁すコールマンにシェフェルは怪訝な表情を浮かべる。
「メイリンの容態に変化が見られたのですか?」
「はい。先程、意識を取り戻したのですが・・・。」
ドクター・シェフェルは直ちに席を立つと医務室へ向かった。
扉の向こう側から聞こえてきたのは画鋲を床にばら撒いたような金属音。
続いて重量感のある低音の衝撃。
「ラクス様!!」
シェフェルは叫びと共に扉を開けた。
ラクスの左頬は血が滲んだように紅く腫れ上がっり、
穏やかに結ばれた桜色の唇の端に、一筋の紅い糸が垂れた。
右手から細い指を伝い真紅が滴り、
床には同色のハサミが落ちていた。
その先のキラに、
人懐っこい柔和な笑顔のヤマト隊長の片鱗さえも無い。
キラの背後の医務室の白の壁よりも遥かに白い顔からは感情が欠落しており、
ただ大きく開かれた口から荒く呼吸が繰り返されていた。
肩だけではなく、
強張った身体全体を不規則に揺らしながら。
「キラ。」
歌うように、ラクスはキラに呼び掛ける。
その瞳に映るのはキラ以外に何も無い。
しかし、ラクスに対峙するキラの紫黒の瞳には何も映らない。
何故ならば、今のキラに光が存在しなかったからだ。
光が無ければ、人の目は何も知覚出来ない。
キラは、ラクスから注がれる光さえも届かぬ闇の深淵にいた。
もう一度、ラクスはキラに呼び掛ける。
「キラ。」
闇の深淵へ手を差し延べる、
ラクスの瞳には一抹の陰りも無い。
常に寄り添いあい一つの空気を纏っていた2人は、
今完全に異質であった。
ラクスの白魚のような手が近づき、
キラの頬に触れようというその瞬間、
キラは大きく身体を震わせると恐怖に表情を歪め、
自らの腕につながれている点滴のスタンドに手をかけラクスに振りかざした。
シェフェルはすかさずラクスの身をかばうように立ちはだかったが、
それを制したのはラクス自身であった。
うららかな春の陽気を思わせる柔らかな表情で、
ラクスは再度呼びかける。
「キラ。」
ラクスは伸ばした両手でキラの頬をすり抜け腕をまわし、
ゆっくりとキラを抱きしめた。
キラに流入する、
愛しみの熱。
しかしそれはキラに生を突きつけるだけだった。
今までラクスの呼び声は、
キラの生の賛歌であった。
しかしその歌は今、
キラの胸に身体に残酷な響きとなって降り注ぐ。
自己の存在を否定するキラにとって、
最も恐怖するものとはその自己の存在を明確化する他者である。
自己の存在を肯定する他者である。
他者からの自己への受容である。
自己の否定は他者による肯定を否定しなければ完結しない。
故にキラはラクスを否定する。
その生を否定する。
自己を脅かさない他者を求め合う人間の営みと逆行するその衝動は、
本能的な自己防衛だった。
自己の否定を目的とした自己防衛。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁあぁぁぁぁ!!!!!!」
ラクスが待ち望んだ愛しいひとの声が、
時を止めるほど重力を帯びた医務室内の空気を劈く。
キラが発したのは、人間の言語ではなく生命の叫びだった。
その叫びも、
振り下ろされる行為も、
全てラクスは受け止めるように、
清らかな表情でキラを抱きしめ続ける。
そのラクスの沈黙によって時が完全に止まるように、
シェフェルは身動きできずにいた。
キラが掲げたスタンドが振り下ろされていくのを、
シェフェルは、映画のスローモーションのように見つめていた。
ラクスは軽傷では済まないと医師としての目が認識していたにも関わらず。
そこに作られた2人だけの世界の境界面から先に立ち入れなかった。
シェフェルの目の前に出現した世界は、
何処かの国の建築物に描かれた壁画のように、
何処かの書籍で目にした宗教画のように、
何処かの美術館で目にした絵画のように、
誰かの口から伝えられた神話のように、
決して自分が踏み込むことのできない絶対領域であった。
愛しんで止まないその熱が身体から離れたことで、
ラクスは目を見開いた。
金属の衝突音で、シェフェルは我に返った。
2人の絶対領域を破壊したのは、
アスランだった。
アスランはラクスの頭上に振りかざされたスタンドをキラの素手ごと受け止め、
そのままキラの背後に回ることでキラの腕を締め上げた。
押さえつけた素手や、
捻りあげた腕が折れるほどの力を、
アスランは容赦なく加えた。
キラが状況を把握できずにいるその隙に、
アスランはキラからラクスの身体を引き離し、
スタンドを一気に奪い取った。
勢いそのままに壁に衝突したスタンドの衝撃音が医務室に響いた。
それは、2人の絶対領域がアスランによって破壊された瞬間だった。
髪を振り乱し四肢が?げる程振り回し抵抗するキラの首筋にアスランは手刀を加え、
一気に脱力したキラをベットに押さえつけた。
「ドクター、鎮静剤を。」
アスランの掠れた声は寥々と響いた。
それを合図として、シェフェルの思考に情報が鉄砲水のように流入し、
アスランが医務室に駆けつけたのだと漸く認識した。
自分の身体の動きとして客観的に認識するように、
シェフェルは注射器をキラの腕に押し当て鎮静剤を注入していく。
そこで初めて、シェフェルは全身の衣類がへばりつく程汗をかいていたことに気が付いた。
キラの腕から注射針を抜くと同時に、身体に加わる重力が異常に増しているように知覚し、
備え付けのデスクの椅子に身を委ねるように腰掛けた。
ギシっ。
椅子が軋む音が脳内に響くと同時に、
恐ろしく冷静に、
医師として状況を判断していく自身も存在した。
ラクスはキラが目覚める前と同様にベットの傍に腰掛け、
力なく瞼を閉じ規則正しい呼吸を刻むキラの手を取った。
色彩を増していく左頬も、
桜色の唇から零れた紅い糸もそのままに、
ラクスは波一つ立たない湖のような、穏やかな笑顔をキラに向けた。
キラの呼吸した空気を吸い込むように、
すぅっと深呼吸をひとつすると、
清らかな歌声が響いた。
全てを浄化してゆく、
祈りの歌が。