3-17 秘書官の溜息



まだ初々しさの残る新米秘書官は、盛大なため息をついた。
深緑の髪を夜会巻きできっちり結い上げた彼女は、米神のあたりに手をかざす。
それを見た彼女の上司であるニコライはふっと表情を緩め、
世界情勢のニュースが映し出されたPCの画面から顔を上げた。
「エレノワ、溜息は目の前の幸せを吹き飛ばすぞ。」
オールバックにした見事な白髪を持つニコライは朗らかな笑みを浮かべ、
整った口ひげを揺らしながらエレノワを小突く。
「ラクス様からのお申し出、お聞きになりましたか?」
「あぁ、この先一ヶ月は公務を半減してほしいと・・・。」
エレノワは、ニコライの暢気とも取れる口調に厳しい視線を向ける。
「今は、独立自治区ソフィアがプラントから完全に独立しようとの動きが強まっているんです。
重要な政治的局面にも関わらず、公務を半減なさるなんて・・・。」

エレノワの脳裏に先ほどのラクスの言葉が反芻する。

『愛するひとが病床に臥しているのです。
わたくしは、キラの傍におります。』

迷いの無い真直ぐなラクスの瞳を見て、エレノワは既にご決心されたのだと見て取った。
敬愛の念を抱くラクスの意向を極力実現したいと思う一方で、
上司であるニコライの目の前で腑に落ちない表情を浮かべた。
柔らかな笑みを浮かべながら、ニコライは口を開いた。
「エレノワは恋人はいるのか?」
「セクハラですよ、その質問は。」
エレノワは間髪入れずに冷ややかな返答をした。
「そういう経験があればわかるだろう。
大切なひとを支えたいと思うことも、
大切なひとの傍にありたいと望むことも。」
「お気持ちはお察しいたします。
ですがこの政治的局面で公務より恋人を優先させるなど、私にはできません。」
きっぱりと口を結んだエレノワに対し、ニコライは口元をゆったりと緩めている。
「ラクス様のお気持ちは、人として当たり前のことだ。」
ニコライは確認するようにエレノワを見遣ると、
エレノワは素直に頷いた。
「ならば、人として当たり前の思いを実現すると、
何故それは当たり前でな無くなるのか。」

――その問いはもっともだ。

エレノワはそれを認めながらも整然と言葉を返す。
「私的な思いと公的な責務は、時として同時並行的に実現できません。
議長というお立場にあられる以上、その責務に尽力すべきです。
何故なら、それをお選びになったのは他でもないラクス様なのですから。」
「間違いでは無い。
国民のほぼ全てはそう言うだろう。
わたくしよりも、おおやけを、と。
だが、クライン議長とて一人の人間“ラクス”としてありたいと思うのもまた、
間違いではない。」
「それは、そうですが・・・。」
エレノワは歯切れ悪い肯定の返答をし、ニコライはさらに言葉を重ねる。
「“ラクス”であること無しに、クライン議長は存在しえないと、
ラクス様を見てきて、私はそう思うんだよ。」
エレノワは文字で理解することは出来ても、感情に引っかかりを感じていた。
未だ理解を体感していないエレノワに、
ニコライは経験に裏打ちされた余裕のある笑みを向けた。

「クライン議長は常に自然体でいらっしゃる。
その“自然”の淵源は、“ラクス”という一個人にある。
故に、秘書官としてクライン議長を支えることとは、
“ラクス”という一個人を尊重することでもあると、
私は思うんだよ。」

ニコライの言葉をひとつひとつ飲み込むように、
エレノワはゆっくりと思考をめぐらせながら机に向かった。
そしてひとつの仮説に行き当たる。

――私が思い描く、
  いや、プラント国民が描くラクス・クラインには、
  都合の良い願望が紛れ込んでいるのではないだろうか。

世界平和のために献身する聖女、
プラントを平和と繁栄へと導く女神、
それはラクス・クラインの一側面にすぎない、そうだとしたら・・・。

――私たちは、どれだけ“ラクス”という個を
  見てきたのだろう・・・。 
 


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