3月8日 ありがとうの日
そうして、ザラ准将の説明が再開された。
しかし、雨の匂いに呼び起こされた記憶が
大地に染込むように心を満たしていくから
カガリは意識を集中させるように文書の文字を追った。海風に混じる雨の匂い、
打ち寄せる波の音、
アスランの声――――だめだ、負けるなっ!
カガリは薄く唇を噛んで、意識を現在に保とうとした。
それでも、どうしても過去に心が引かれてしまう。
海が月に引かれて波を生むように、
カガリの心がざわめきだす。――今日が、あの日だから・・・
――アスランと、
初めて出逢った・・・と、意識を劈くような音に
カガリは微かに身体を震わせた。「スコール・・・。」
呟くようなザラ准将の声に顔を上げれば、
窓を叩く大粒の雨で、景色が見えない程だった。
ビー玉を天からばら撒いたような音が部屋を包んで、
まるでこの場所だけが世界から切り離されたような感覚さえ覚える。――あの時も、こんなスコールに遭って・・・
そう想ってしまった瞬間、カガリは胸の内がどうしようもなく熱くなり
その熱を持て余す自分に失望するように
全身が冷えるような感覚に襲われた。
そして、強制的に思考をねじ伏せ、ザラ准将の起案文書を閉じた。このままでは、何もかもが中途半端になる。
叶えたい夢のためにある今も、
胸の内であたため続けた想いも。
だから。「すまないが、日を改めてくれないか。
このスコールじゃ、大切なことを聴き逃してしまいそうで・・・。」アスランの目を見ることも出来ず、
起案文書を差し出す自分に憤りを感じずにはいられなかった。
いつでも、どんなに揺らいでも、
顔を上げて前を向いて歩いていきたいのに、――それが、私がアスランのために出来る
全てなのに・・・今、顔を上げて、アスランに全てを悟られない自信が
カガリには無かった。
もっと強くなりたいと、
あんなに想って励んで
それでも駄目で、
また、アスランを傷つけるなんて・・・
そんな事、絶対に嫌だ。「そうですね。」
返された言葉が、冷ややかに響いた気がしたのは、
自分が寂しさを感じているからなのか、
それとも本当に失望されてしまったのか、
カガリには分からなかった。手が軽くなって、准将が返却された起案文書を受け取ったと分かって、
カガリは寂しさから手を引くように
スコールが打ち付ける窓を見遣った。すると、視界を遮る白い軍服。
見上げれば、そこに真摯な眼差しで見詰める准将がいた。
アスランだと、直感的に思った。
灼熱を想わせる眼差しに、言葉をなくした。「聴き逃してもいい・・・。」
スコールに掻き消される程の声は
確かにカガリに届いて
掴んで、
そして離さなかった。動けずにいるカガリに、
アスランはそっと近づいて
耳元で
ただカガリだけに聴こえるように
告げた。「カガリ、ありがとう・・・。」
カガリは瞳を見開いて、アスラン以外の音が消えた。
光を、見た。
奇跡という名前の
儚くて
小さくて
尊い光。大切な、光――。
「すまない・・・。」
その声に瞼が弾かれ、見上げた先には
前髪で表情が隠れたアスランがいた。
頬に長い睫の影が差し、
唇を薄く噛んでいるように見えるのは、
気のせいだろうか・・・、
いや、きっと――。「アスランっ!!」
気付いた時には、カガリは名前を呼んでいた。
准将、では無く、アスランと。「アスラン、
ありがとう。」カガリが向けた笑顔は
雨あがりに射す陽の光のように煌いて、
アスランは瞳を細め
微笑むように頷いた。
運命の出逢いも、
あなたがくれた想いも、
共に生きる喜びも、
同じ夢を描く心強さも、
あなたが今、ここにいることも、
みんな奇跡なんだ。
だから、
ありがとうを告げよう。
願わくば
この奇跡を未来と結び
永久に続いていきますように。
Fin
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