9-5 悪戯心
食後の紅茶をこくりと飲み込んで、
カガリは琥珀の瞳をふにゃりと緩ませた。「はぁ〜、おなかいっぱいだぁ。」
そう言ってソファーに沈み込むカガリの仕草に、
マリューとムゥは瞳を細めた。
“今夜は一緒にディナーでもいかが?
もし良ければ、我が家にご招待するわ。”
そんなマリューからのメールが届いたのは、
調度、時計の針が定時を指した頃だった。
カガリは作業を中断して、手早くマリューに返信した。
“もちろん、喜んで。残業は速攻で片付て行くな!”
アスランに辞令を交付した今日、
後ろ向きになる気持ちをどうしようも出来ないこの今、
マリューからの誘いは素直にありがたかった。
宣言にも似たメッセージの通り、
カガリは残った文書をビシバシと捌いて、今に至る。
ムゥとマリューは寄り添うようにソファーに掛け、
カガリの表情をそれとなく覗き込んだ。
オフショルダーのチュニックにショートパンツをあわせたカジュアルな格好のカガリは、
少し下がったニーソックスを直した。
その仕草は歳相応の女の子らしいもので、
それ以上の何かを読み取ることは出来なかった。
いや、何も読み取らせないようにしていると言った方が適切かもしれない。
マリューは不安を含んだ視線でムゥを仰ぎ見た、
大丈夫かしら、と。
ムゥはかたくマリューの肩を抱いて応えた。
と、カガリの声が響く。「あっ、もうこんな時間だ。」
カガリの声につられるように壁に掛かったアンティーク調の時計へ目を向ければ
既に夜の9時を回っていた。「ごめんな、つい長居しちゃって。」
そう言って、ぱたぱたと帰り支度を始めそうなカガリに、
ムゥは快活な笑みを浮かべて、肩を竦めた。「そう慌てなくてもいいさ。」
「や、でもっ。迷惑だろっ。
それに、ムゥだって明日朝早いしさ。」まぁまぁ、と言って今にも立ち上がりそうなカガリの肩を押さえたムゥは
意味ありげな言葉を落とした。「もう少しだけ、待ってやってくれよ、な。」
何を・・・。
それとも、
誰を・・・。ムゥの言葉の真意を解せずに、きょとんと丸くした琥珀色の瞳が驚きに見開かれるのは、
この直ぐ後のことだった。
来客を知らせるベルが控えめに響いて、
ムゥは無造作に髪をかきあげながら“やっと来たな”と呟いて玄関へと向かい、
マリューは嬉しそうにキッチンへと向かった。
1人ビングに取り残されたカガリは、ちょこんとソファーに座ったまま首をかしげた。ムゥが言っていた“待つ”対象とは、この来客者のことであろうかと、
カガリは思考をめぐらせ、くすぐったいような違和感を覚えた。――ん?
なんかこういうこと、前にもなかったか?――呼び鈴が鳴った時のマリューさんの笑顔といい、
席を立ったムゥの小躍りしそうな足取りといい・・・――私のバースディパーティーを開いてくれた時もこんな・・・
――まさかっ。
カガリは無意識にチュニックの裾をぎゅっと握り締めた。
リビングへと続く廊下からムゥの声が近づいてくるのが分かって、
予感か、それとも期待だろうか・・・、
無条件に心臓が忙しなく鼓動を打ち立てた。
そしてガチャリと扉が開いた先に、
カガリは瞳を見開いた。「ア・・・スラン・・・?」
軍服の上着を左手で抱えたアスランが、そこに居た。
信じられなかった。
感情で言葉が喉元で支えて、ちゃんと声にならなかった程。
でも声はちゃんとアスランに届いて、淡やかな微笑を返してくれた。
それだけで、春風が吹きぬけるように心が染まる。
「アスラン君、いらっしゃい。」
「夜分晩くに申し訳ございません。」
「いいのよ。
あ、お酒の方がいいかしら。」
「いいえ、これからまた戻るつもりですから。」
「ったく、お前のワーカホリックは健在だな。」
眼前で繰り広げられている会話は確かに鼓膜を震わせるのに、
一瞬にして染まった心には届かない。
彼に会えた、それだけで胸の熱が瞳に立ち上る。
そうして気付く、
望んだことが目の前に現れることに、
いつから私はこんなに戸惑うようになったのだろう、と。
幼い頃は、願って、望んで、それがひとつひとつ叶っていたような気がする。
でも、今は、
願って、望んで、実現するようにずっと励み続けて、
いざ目の前に現れたらどうしていいか分からなくなるなんて。
と、ふいにアスランが眉尻を下げて困ったような笑みを浮かべたように見えた。
おそらく、自分が何も言わずに凝視していたからだろう、
カガリはばつが悪そうに唇をとがらせた。「悪かったな、
ちょっとびっくりし過ぎただけだっ。」と、ムゥの爆笑がリビングに響いて、益々いたたまれなくなったカガリは
う〜とか唸りながら握りっぱなしだったチュニックの裾を引っ張った。いつまでも初々しい反応を見せるカガリと、平静を装っているアスランに
マリューはおおらかな笑みを浮かべ、
アスランのために淹れたコーヒーをカガリの隣に置き、
「ごゆっくり。」
と、にっこりと微笑んでキッチンの方へ消えていった。
ムゥはアスランにカギを渡して、
「オートロックだけど、一応な。
あと、帰る時は戸締りと消灯、よろしくな。」
ニヤリと意味深な笑みを浮かべながら肩を叩いて、
マリューの後を追うようにキッチンへ消えていった。全く状況が読めないカガリは、
え、とか、おーい、とか口をぱくぱくさせていたが、
この家の主たちは来客者を置いてあっさりとリビングから消え去った。
静まり返ったリビングで、カガリは残ったアスランを仰ぎ見た。
その視線は、“一体どういうことだよっ!”と物語っている。一方のアスランは深い溜息を落とし、ローテーブルに預かった鍵を静かに置いた。
が、カチャリという密やかな音が思いがけず大きく響いたように感じたのは、
今の精神状態のせいだろうか。「こんなつもりじゃなかったんだが・・・。」
そう言ったきり黙ったままのアスランの様子に、カガリは不思議と笑みが浮かんだ。
――“この今”に驚いたり、戸惑ったりしてるのは
アスランだっておんなじなんだ。カガリはアスランを促すように、ソファーをぺちぺちと叩いた。
「とりあえず、座れよな。
残業・・・、だったんだろ。」カガリに視線を当てられ、アスランは軍服の上着をソファーの背にラフに掛けると、
カガリの隣に腰掛けた。
マリューが用意したコーヒーカップをカガリの隣に置かれてはそこに座らざるを得ず、
ムゥとマリューのあからさまな意図にアスランは溜息をもらした。
そんなアスランの表情の訳を解せず、カガリはパチクリと瞬きを繰り返した。
ムゥはマリューの肩を抱き、足音を忍ばせて廊下を急いだ。
そうしなければ、一気に笑いを噴出してしまいそうだった。
まるでかくれんぼをするように、音を立てずに扉を開き素早く閉めると、
ムゥは抱きしめたマリューの肩口に顔を埋めて、押し殺した笑い声を上げ、
腕の中のマリューも擽ったそうに身体を揺らして笑った。
「上手くいったな。」
「えぇ、もうバッチリ。」
2人は、まるで悪戯が大成功した子どものように、くすくすと笑みを零さずにはいられなかった。
事の発端は、ムゥ宛に届いたアスランからのメールだった。
“今夜、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?”
アスランらしからぬ突然の内容にムゥは面食らい、問い返せずにはいられなかった。
頭の隅でバルティカ紛争への派遣が過ったが、
相談するなら他にふさわしい奴の顔がいくらでも浮かんだ。
となれば、職務に関することである可能性は低くなる。‘いいぜ、お誘いはいつでも大歓迎!
でも、何かあったのか?‘“はい、恐らくカガリに。
なので、食事でもしながらゆっくり話を聴いてやってくれませんか?“――・・・って、おいっ!!
カガリの話聴くのは俺じゃなくて、お前の方がいいだろっ!!と、ムゥは胸の内で総ツッコミを入れた、が、
代表と准将としての距離を保とうとするアスランの律儀さを考えれば
仕方の無いことなのかもしれない。
しかし・・・。――こうなりゃ、ひと肌脱ぐしかないだろうっ!!
ムゥは意気揚々とアスランにメールを返信し、愛妻へと通信を繋いだ。
もちろん、今夜の作戦会議のために。
ムゥとマリューは互いの額をぴったりとくっつけて、見つめあった。
堪えきれない笑みが絶えることなんて無くて、耐えられる訳も無かった。「なぁ、こうしてさ、アスランとカガリの密会のためなら、
俺はいっくらでも部屋提供するよ。」
「私も。
いくらでもアリバイ工作するわ。」ゆったりと深呼吸をして、マリューは苦味を帯びた表情をムゥの胸に押し付けた。
「2人には、自由が必要だわ。
アスラン君とカガリさんが幸せを選べないこの世界の中で、
ほんの少しだけ、
2人が2人でいられる自由・・・。」
←Back Next→
Chapter 9 Blog(物語の舞台裏)
Top