3月8日 ありがとうの日










 

あれはまだ、
あなたと抱きしめあうことができた
あの頃。

3月8日――

『カガリ・・・ありがとう。』

見上げた先に穏やかな微笑みがあって

あなたのぬくもりにつつまれて

まるで深海のような静けさと

波音のような穏やかさを感じて

瞳を閉じて、

世界で一番好きな音を聴いた。

アスランの鼓動。

そこに私の鼓動が聴こえて

違うテンポで奏でるそれが

だんだん近づいて。

重なる鼓動に

尊い光を見たような気がした。

これが、奇跡だと思った。

だから、私はアスランに告げたんだ。

3月8日――

『ありがとう、アスラン。』

 


首長室で決裁文書の山をひとつひとつ攻略しながら、
カガリはふと床を滑る影を見た。
左壁面の大きな窓へ視線を馳せれば、
開け放たれたガラスの向こうで
常夏の蒼い空を白い鳥が翼を広げているのが見えた。

「ありがとう、アスラン・・・。」

知らず呟いたカガリは
自らの唇を指でなぞった。
声は、聞き届ける人がいないのに
この空中に漂うことなく
真白な天井に溶けて消えて、
そして、カガリの胸に深く沈んだ。

――ありがとう、アスラン・・・。

アスランに、
出会えた奇跡に、
想いを馳せる分だけ浮かぶのは
今もあの頃も変わらない、
「ありがとう」の言葉。

まだ、恋人の関係にあったあの頃に言えた言葉は、
今はこうして一人で呟く他無い現実に
涙を浮かべることは無い。
それは強がりでも意地でも無く、
純粋なカガリの望みだった。

――顔を上げて、前を向いて
   歩いていきたい。

――そしたらいつか、
   アスランが夢に描く未来を
   実現できるから。

――そしたら、あいつが、
   笑うから。

先の大戦時に、自ら指輪を外したカガリが
アスランを幸せにするたったひとつの方法、
それはアスランの描く夢を実現することだった。
夢を実現した未来で、アスランが笑ってくれるなら
それを隣で見ることが出来なくてもいいと思った。
それ程カガリは一心に願い、
顔を上げて前を向き、真直ぐに歩んでいた。
描いた同じ夢を、
その先の未来を
瞳に映すように。

でも、時折過る過去が
まるで月のように優しく照らすから
胸の奥にしまった想いがたちのぼって
瞳を揺らす。

そう、今も。

――今年は、言えないな・・・。
   「ありがとう」って。

わかっているのに
窓の外の、大空の真ん中で翼を広げる鳥に視線を馳せてしまうのは、
きっと何処かで思っているからだ。
飛んでいきたいと。
アスランが、あの頃のように
迎えてくれる筈無いのに。

――キラとラクスなら、
   間違いなく飛んでいくだろうな。

半身と金襴の友を想い、
心が擽られるように笑みが零れた。

――考えただけで私に笑顔をくれる、
   本当に、2人には感謝だな。

そう思考して、カガリはひとり大きく頷いた。

――うん、今日は“ありがとうの日”にしよう。

東洋の諺に“思い立ったら吉日”というものがあったが、
なんともステキな言葉だと
カガリは胸の内で盛大に感心し、
机の引き出しからカードを取り出すと
さらさらと万年筆を滑らせた。

“3月8日 ありがとうの日”

「よしっ!」

ウズミにそっくりな癖字のカガリの文字には
不思議と感情が乗る。
カガリはカードを机の隅に置くと、決裁文書の山に再び腕を伸ばした。

その時だった。

控えめなノックの音。
カガリは首を傾げて、携帯端末に表示されたスケジュールに視線を滑らせた。
が、そこには会議も面会も予定は入っていない。

――となれば、緊急な案件を持ってきたのかな・・・。

誰であろうと、官僚の顔を次々と浮かべながらカガリは返事をした。



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