chapter12番外編 借りてきた猫
一日の最後についた溜息の後に残るのは
緩やかな弧を描く微笑み。
全力を尽くした体にのしかかる疲労の重みが
どこか心地よく感じるのは何故だろう。イザークは自分に割り当てられた個室のソファに身を沈め
ミネラルウォーターを飲み干した。
その拍子に、一日の汗を流したボディーソープの香りが鼻腔をくすぐり
ふと違和感に気付く。
香水の類は苦手であるし、香りに敏感になるのはワインの範疇だけだったイザークが
生活の中で感じる何気ない香りに気を取られたのはあの女のせいだ。『イザーク、お前いい匂いがするなっ。』
そう言って猫のように鼻を近づけた女は
まるで“借りてきた猫”のようだとイザークは思う。
彼の言う“借りてきた猫”とは、東洋の諺の通り普段と異なりおとなしい様を表すのではなく、
幼い頃に母上が文字通り“友人から借りてきた子猫”のことである。
何処からともなくやって来ては家の中を引掻きまわし、
なのにいつの間にか家中の者たちに愛されて…
気が付けばジュール家は子猫を中心に回っていた。カガリ・ユラ・アスハを保護して以来、ジュール隊は変わったと断言できよう。
先ず、確実にあの女に引掻きまわされている。――その首に鈴でも付けてやろうかと、何度本気で思ったことかっ。
しかし、そんなことをすれば今頃血眼になって捜索を続けている戦友の逆鱗に触れることは間違いない。
だが…。
イザークの手の内のボトルが音を立てて変形した。――最も許せないのは、ダイニングでの振る舞いだっ。
オーブの代表首長という立場にありながら、
自らエプロンを身に纏い食事の手伝いをするなんて前代未聞だ。
しかもあろうことか、食事を残すクルー達を叱咤しては『あ、またトマトを残したなっ。
しょうがない、食べさせてやるぞ!
ほら、あ〜ん。』なんて言っては、奴らに食わして回っているではないか。
今になっては、アスハ代表に“あ〜ん”してもらいたいがために
全員一口ずつ残すようになったと言うではないか。――これでは本末転倒だっ。
それに・・・『イザーク、艦長が好き嫌いしたら部下に示しがつかないぞ!
セロリは栄養満点なんだからな。
ほら、あ〜ん。』――くっそぉぉ・・・・っ
屈辱的“あ〜ん”がフラッシュバックし、
手に持っていたボトルは原型を失った。しかし、だ。
冷静さを取り戻そうと、イザークは静かに目を閉じた。
彼女がこの艦に来てから確実に変わったと、素直に思う。
最も変わったのはクルー達の表情だ。
よく笑うようになったと一言では片付けられず、
かと言って他に形容すべき言葉もみつからない。
言葉以上の変化が目を凝らさなければ見過ごす程小さく音も無く、
しかし爆発的なスピードで広がっている。
そしてそれは決して悪いものではなく、
少し照れくさいが心地よいものだとイザークは思っていた。太陽に向かって花が咲く様にクルー達は顔を上げて任務に励み、
波と戯れるように笑い合い、
大空に抱かれる様な安らぎを覚える。一日の最後につく溜息、
その後に浮かぶ緩やかな弧。
クルーの誰もに浮かぶ最後の微笑みを下支えしているのは
間違い無くカガリ・ユラ・アスハの存在だ。そして今自分の顔にも浮かぶ微笑みに気付き、
イザークは苦笑するように口元を抑えた。――変わったのは俺も・・・か。
イザークは軟弱な思考は疲労のせいだと結論付けベッドに向かい
そのままフリーズした。
何故ならば
自分のベッドのシーツにくるまった“猫”が
そこに居たから。――何故そこに居るー!!
叫び出しそうな声を何とか胸の内に留め、
せり上がった肩そのままにイザークはベッドの中のカガリを睨みつけた。――全く、借りてきた猫そのものだな・・・っ。
イザークは吐き捨てるように溜息をつきベッドへ近づき
猫のように自由すぎるカガリを叩き起こそうと上げた手が、
止まった。あまりに安らかに眠るカガリの表情がイザークの手を止めさせたのだ。
猫のように体を丸め枕に小さな頭を預け、
心地よさそうにスヤスヤと規則正しい寝息を立てている。
良い夢でも見ているのだろう。
叩き起こせば彼女から夢を奪うことになる。
そんな事――…すべきでは無い。
振り上げた手を下ろし、イザークはベッドのふちに腰掛けた。
まるで子供のように無垢な寝顔に、イザークは切なく目を細める。――こんな安らかな時間を、
この女は、どれ程過ごす事が出来たのだろうな…。一国の代表だけでは無い、今や世界の平和さえも背負う彼女は
その重圧に耐え続けるにはあまりに若すぎる。
全てをこの白くて細い肩に背負っているのだろう。そこまで思考して、イザークは己に問いかけ
――白い肩…
またしても叫びだしたい衝動にかられ、咄嗟に両手で口元を抑え込んだ。
ベッドカバーから覗くカガリの肩は剥き出しであり、――まさか裸かっ…
ベッドの下に散らばったパーカーとショートパンツが
イザークの仮説に真実味を帯びさせる。――まずい、まずいぞ…っ!
こんな所を誰かに見られでもしたら完全に誤解するだろう、
カガリを部屋に連れ込み、襲ったのだと。
さらに、シャワーを浴びたばかりのイザークの背中を冷たい汗が伝う。
これがアスランに知れたら…――確実に殺られる…っ
背中を打たれるような悪寒に体を震わせた。
もはや彼女の安らかな眠りを護っている場合では無くなった。
イザークは素早く床に散らばった服をかき集め、カガリの前に突き出し
彼女を起こそうと声を張り上げた。「貴様ぁ、起きろ!服を着ろぉぉぉ!」
しかしその叫びは声になる前に氷ついた。
なぜなら、「おーい、イザーク。悪いんだけどさぁ…」
聞き覚えがありすぎる声が鼓膜を震わせ
こめかみから一筋の汗が滑り落ちた。空気が――揺れない。
イザークにも偶然にも現場に居合わせてしまったディアッカにも
それほどの衝撃が伝わっているのだろう。イザークは息を止めたまま、超絶的なスピードで思考を巡らせた。
――俺のベッドで裸の女が寝ていて、
さらに俺は彼女の服を手に持っている。
この状況を見れば、どんなアホでもこ導き出す答えは1つだ。
俺とカガリはヤったのだと。
しかしそれは完全な誤解だ。
むしろ、俺はベッドを奪われた被害者だ!
だがどうする、正直に話すか…?約1秒間の思考に従いふりかえろうとしたイザークの首は
それを拒むように動かない。
ありのままの真実をディアッカに話した所で奴は信じるだろうか。
冷やかす、からかう、言いふらすのどれかになるにが関の山だ。――じゃあ、どうする。
どうする…。思考に全神経を集中させていたイザークの背中から
静かなため息が聞こえた。
それは静まり返った部屋にやけに大きく響きイザークの鼓動を止めた。「なんか、邪魔して悪かったな…」
踵を返す靴音にイザークは我に返り、
カガリの服を抱いたままディアッカの腕をつかんだ。「待て、誤解だっ」
こんな時でも安らかに眠る彼女を思いやり
声を殺してしまう自分は、何と甘い人間なのだろうか。
そんな声が頭を掠めた時、ディアッカの冷めた視線が突き刺さった。「何が誤解だよ。
ベッドにいるの、カガリだろ?
服着てねぇじゃん…」「なっ、何も無いっ。
部屋に戻ったらこの女がベッドに寝ていたんだ。
大体、俺はさっきまでシャワーを浴びていた。
何も出来る筈無いじゃないかっ!」一息でまくし立てるイザークの言葉は
贔屓目に見ても言い訳にしか聞こえず、
そもそも、どんなに論理的に説明されたところで
カガリの服を手に持ったままでは何の説得力も無い。ディアッカは片側の口角を上げて肩を竦めた。
「”ナニ”かしたからシャワー浴びたんだろ?
二人の汗でベッタリだろうし。」ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべるディアッカは完全に誤解している。
イザークは思う、これ以上奴に何を言おうと誤解は解けないのではないかと。
だったら、残され手はただ1つ。――カガリを起こすしかあるまい。
彼女の口から身の潔白を証明してもらう他に
もう道は残されていない。「別に責めちゃいないぜ、むしろその勇気に尊敬の捻さえ覚えるぜ。
あっ、もちろんここだけの秘密にしてやるぜ。
アスランにバレたら、お前殺されるだろうし。」そんなディアッカの戯言を置き去りにして、イザークがカガリ起こそうとした
その時だった。再び、イザークの心臓が凍りつく。
「「失礼しまーす」」
綺麗にハモった姉妹の声。
イザークの背中を日本刀のように冷たく鋭利な汗が伝う。「艦長、カガリ様見ませんでした?
どこ探しても居なくて…」ルナの言葉は最後まで結ばれることは無く、
姉妹は驚愕に瞳を見開いた。ベッドの上で眠るカガリは肩が剥き出しで
目の前の艦長はルナが貸したカガリのパジャマを持っていて…「違う、誤解だ!」
イザークはルナとメイリンに向かって叫び、
ディアッカが彼女らにあらぬことを吹き込まないよう牽制の視線を投げる。
しかし、そこにいた筈のディアッカは姿を消していた。
ディアッカにとっては、イザークの弱みを握るだけで十分であり、これ以上この部屋にいる利は無い、
むしろ騒動に巻き込まれるリスクが高まるばかりだと判断したのだろう。――ディアッカの口を封じねば…その前にこいつらを…
イザークの思考は腹部を襲った激痛によって遮られる。
「ぐはぁぁっ」
イザークに飛び蹴りをお見舞いしたルナは
うめき声を上げるイザークを睨み付けながら
カガリを護るようにベッドの前にたちはだかった。
一方、ショックで動けなくなったメイリンは我に帰り「シン、ヴィーノ、来てぇぇ〜!」
固まった喉をこじ開け、あらんばかりの声で叫んだ。
――ま、待てっ!
あいつらまで呼ぶな、バカヤロウ!“カガリ様見つかったぁ〜”と、何とも呑気なヴィーノの声が
開け放った扉の向こう側から聞こえてくる。――最悪だ…
最悪の事態の予感にイザークは声すら上げられず
蒼白の表情にただ汗をうかべることしかできない。
イザークが見放された天を見上げたその時だった。
“失礼しまーす”とかったるそうに入ってきたシンに
メイリンは飛び付き涙目で訴えた。「カ、カガリ様が…
カガリ様が艦長に襲われて…」メイリンの言葉にイザークは冷静さを装って口を開いた。
話せば分かる、そう信じていた、
この時までは。「違う、お前ら話を」
しかし、それは言葉になる前に
「この変態野郎ぉぉぉ!」
シンの鉄拳が炸裂。
イザークの口元はひしゃげ、勢いそのままに壁に激突、
その拍子にパステルカラーのパジャマが宙を舞い、
すかさずルナはそれらを回収し、悪者から救いだしたかのように固く抱き締めた。その時だった。
背後から聞こえるシーツが擦れる微かな音に、ルナはギクリと体を震わせる。――このままカガリさまが起き上がれば、
穢れ無きお体を野郎共に曝すことになっちゃう!「起きちゃダメぇぇぇ〜!」
そんなルナの祈りも虚しく
無垢な眠り姫は目を覚ました。
大胆にもベッドカバーを引き剥がして。「うぅ〜ん、朝かぁ…?」
「「きゃぁぁーー!!」」
パニックになった姉妹はまるで自分の裸を見られたかごとく叫びを上げ
ルナはシンとヴィーノの顔面に向かってパジャマを投げつけた。
流石はザフトのエースパイロットである、それらは見事に命中し
シンとヴィーノが顔面に張り付いたパジャマに気を取られている間に
カガリにベッドカバーを掛けようとした。
が、ルナとメイリンの手が止まる。カガリは服を着ていたのだ。
キャミソールとショーツ姿で幼子のように目をこすっている。
肩が剥き出しだったのは、パーカーを脱いだ拍子にキャミソールの肩紐落ちてしまっただけだろう。
そう結論付け、ルナとメイリンは盛大な溜息と共にペタンと座り込んだ。
最早、立ち上がる気力さえ残っていなかった。「何だ、どうしたんだ?」
未だ夢から覚めきらないカガリの舌ったらずな声にゆるゆると視線を上げた姉妹は我に返った。
ひょっとして、この状況もマズイのではっ!?
寝る時は体を締め付ける下着を外す、
つまり今カガリ様はっ――思考のままに姉妹は視線をカガリに向けた。あくびで潤んだ瞳に、擦ったせいだろう目元は赤みを帯び
乾いた口元を色づけるように撫でる舌、
ベッドカバーから露わになった触れたくなる様な太股とそこから覗く淡いグリーンのショーツ、
胸のふくらみで辛うじて引っかかっているキャミソールは今にも落ちそうであり、
肩紐をさりげなく直す拍子に豊かな胸が揺れ…「…カっ、カガ…、カガ…。」
あまりの状況にルナは声が上ずってしまう。
「あの…くっ、ふく…ですね…っ。」
メイリンも同様に縺れた思考で何とか言葉を絞り出す。
まどろみのようにまったりとした空気に圧迫され固まった面々の視線を浴び続けること5秒間、
漸くカガリは気が付いた。
「うわぁああぁぁっ!」
カガリは体を隠すようにキャミソールの裾を勢い良く引っ張った。
その拍子に外れた肩紐、
胸元が露わになる瞬間、
メイリンは野郎共の視線を遮るようにカガを押し倒し
ルナの右ストレートと左フックがシンとヴィーノの顔面に命中した。
血柱が2本、艦長室に立ち昇る。
カガリは耳たぶまで赤くしながら叫んだ。「お前ら、出ていけーっ!!」
「ぃって〜。」
“本気で殴る事ねぇだろ…”とぼやきながら、シンは殴られた頬に手を当てる。
あまりの衝撃で感覚がマヒしているのだろう何も感じない。
“明日は腫れるな”そんな事を考えてながら隣のヴィーノを見て噴き出した。「お前、鼻血出てるぞ。」
あまりの痛さに歯もくいしばれないヴィーノは涙目になってシンをやり返す。
「シンらって!はらじ!」
舌が回らないヴィーノの指摘にシンは驚き、慌てて鼻を手の甲で押さえる。
“ここは俺の部屋だぞ、全くっ。”と言いながら扉を睨むイザークに
ヴィーノとシンは悪戯っ子のような笑みを浮かべて肘で小突いた。「艦長も隅に置けないですね。」
「アスハに手を出すなんてなぁ。」まるで中学校のバカ男子のようにニヤニヤとした笑みを浮かべる2人に
イザークは吐き捨てるように言った。「俺は何もしていないっ。
部屋に入ったらアイツが…っ。」しかしその弁明は彼の登場によって遮られる。
肩に手を置かれる感触、それだけで誰が来たのかイザークは分かった。
その瞬間、頭の中で霞みがかったこの一件の全貌が見えてきた気がしたのだ。「おいおい、お前ら。
何騒いでるかと思えば…。」「ディアッカ、お前っ。」
シンとヴィーノは突然のディアッカの登場に驚いた瞳を一様に曝している。
そこから判断するに、やはりディアッカはルナとメイリンが騒いでいる間に部屋を抜け出したのだろう。
何のために――――決まっている、絶好のタイミングを逃さないためにっ。
腐れ縁の戦友の思考は手に取るように分かる。
イザークは奥歯を噛みしめた。「お前ら、いいのかよ…
アスハ代表に恥をかかせた上に」ディアッカの言葉を聴きながら、イザークの米神に青筋が浮き上がる。
――あの女を俺の部屋に呼び寄せ、
“ベッドを使っていい”とか何とか言ったのだろう。「あ〜んな美味しいものまで見ちゃって…」
――シャワーを浴びて俺が部屋に戻った後、
アイツは偶然を装って俺の部屋を訪れ騒ぎ立てる。
それがディアッカのシナリオだったんだっ。顔面蒼白のまま鼻血を垂れ流すシンとヴィーノを横に
イザークは鋭い視線をディアッカに向けるが、
彼は飄々とそれを受け流す。――ディアッカの目的は…
「いいのかよ、アスランに報告したら…。」
扉の開く機械音で凍りついた空気が一瞬にして溶けた。
奪われていた酸素を取り戻したように溜息を付いたシンとヴィーノだったが、
カガリを両脇に挟むようにして出てきたホーク姉妹の視線によって串刺しにされる。「この変態っ。」
冷たく言い放つルナに、
「みんなサイテーっ!」
軽蔑を込めた声のメイリン。
そして、威嚇する猫のように目を光られたカガリ。
「お前ら、明日はデザート抜きだからなっ!」3人が目の前を通り過ぎる時、ディアッカはイザークにしか聴こえない小声でつぶやいた。
“あんな涙目で睨まれても、子猫じみたかわいさしか感じねぇっつうの。”
イザークはディアッカから漏れた“猫”というキーワードに、
またしても一本取られたと感じずにはいられなかった。カガリはイザークにとっては“借りてきた猫”、
その事を誰よりも理解し、
誰よりも楽しみ、
そしてその楽しみを絶大的な効果で拡大させているのもみんな、――ディアッカの仕業か。
“送ってくぜ”と、ディアッカは紳士らしく彼女たちをエスコートするため遠ざかっていく。
残された野郎共に会話が漏れ聞こえる。「姫さんも、災難だったな。」
「いや、ルナとメイリンのおかげで助かったよ。」
「いや、俺の責任でもあるし・・・さ。」
「どういうことですか?」
「カガリから広い部屋は無いかって聞かれてさ、
質問のままにイザークの部屋を伝えたんだけどよ…、
まさか、こんなことになるなんて…。」会話が漏れ聞こえたのではない、
ディアッカが偶然を装って彼らに聴こえるように会話をしているのだ。
漸くディアッカにハメられたことを理解したシンとヴィーノが叫び声を上げた時、
通路の角を曲がるディアッカは残された野郎共に向かって舌を出した。
それから数日間、シンとヴィーノはディアッカの下僕となり
馬車馬のように働かされた事は言うまでも無い。
そして、イザーク自慢のワインセラーからプレミア物のワインが1本消えたのだった。
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